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棚橋弘至「ジェイク、新日本に上がってこいよ」 “猪木がいなかった夏”から50年、後楽園ホール還暦祭はプロレス界に何を残したのか?
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/04/20 17:00
三冠ヘビー級王者の宮原健斗(全日本)とタッグを組んだ棚橋弘至(新日本)。後楽園ホールの「還暦祭」では団体の垣根を超えたドリームマッチが組まれた
初めて棚橋とタッグを組んだ宮原は言った。
「ワクワクしていたし、試合を終えてもこれから先が楽しみで仕方ない。この先どうなるのか、このタッグ、何があるのかわからない。それがプロレスだと思っているから。おそらくプロレスファンのエネルギーが、その方向性を導くんじゃないかなとオレは思っている」
以前、棚橋は宮原と「どうなったらプロレス界がよりよくなるのか」を語り合ったことがあるという。宮原が棚橋の背中を追っていたことは、その行動からも容易に見て取れた。
1972年、50年前の後楽園ホールの記憶
後楽園ホールという空間は、昭和の時代からプロレスを見守り続けてきた。
金曜日20時の日本プロレス中継が、力道山時代の渋谷のリキ・スポーツパレスから、水道橋の後楽園ホールに移った当時は少し違和感があったのは確かだ。それでも、後楽園ホールは次第にファンが親しみを覚える会場になっていった。
筆者が後楽園ホールで最初にプロレスを目にしたのは、1972年夏の日本プロレスだった。坂口征二、吉村道明組vsミル・マスカラス、エル・ソリタリオ組を見に行ったときだ。ジャイアント馬場が日本プロレスに参戦した最後のシリーズで、一足先に新日本プロレスを旗揚げしていた猪木はもういなかった。
東京スポーツの「プロレス大賞」授賞式が、ファンを入れてここで開催されたこともあった。
長い歴史の中で、レスラーの意地とプライドがぶつかり、いくつかの事件に発展したこともあったが、それもまた、プロレスの醍醐味で面白さだった。プロレスには事件をもエネルギーに変えていく力があった。