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“世界で一番強い男”モハメド・アリはなぜ日本でアントニオ猪木と対戦したのか?「どうせ実現できっこない話」が真実味を帯びた瞬間
posted2022/04/21 17:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
やはり、モハメド・アリ戦だったと思う。
あの日、猪木が日本武道館でアリと戦うことがなかったら、私は猪木をこんなに長く追うことはなかっただろう。好きだった猪木という男が世界のアリと戦うのだから、これだけは見逃すことはできない。
1年間、浪人生活を送った私は志望していた早稲田大学に入学できた。
しかし、すぐに「さあ、プロレスだ」とはならなかった。東京スポーツやデイリースポーツは毎日買っていたが、試合はやはりテレビで見る日々が続いた。
だから、1975年10月9日の猪木vsルー・テーズ戦も同年12月11日の猪木vsビル・ロビンソン戦も会場は蔵前国技館だったが、生観戦はしていない。
あれは2014年2月にロビンソンが亡くなった後のことである。何かの用事で猪木に会った際、私は雑談の中で何気なく「ロビンソン、亡くなっちゃいましたね」と口にした。
「ロビンソンは、観客には見えないような技を知っていたね」
そんな猪木の言葉を聞くと、「ロビンソン戦は、たとえ2階席からでも撮影しておいた方が良かったなあ」と思ってしまうが、今になって後悔しても仕方がない。
当時“世界で一番強い男”といえばモハメド・アリだった
猪木vsアリ戦が行われたのは翌1976年、私が大学2年生の時だ。
さすがに、この試合は会場で見なければいけないと思い、売り切れないうちに池袋の東武デパートにあったプレイガイドで切符を買い求めた。この試合はロイヤルリングサイドが30万円、特別リングサイドが10万円と高額な値段設定でも話題となったが、私が購入したのは一番安い5000円の2階席だった。
また、新宿のアドホック後楽園というビルへ行くと猪木vsアリ戦のポスターがただでもらえるという記事を東京スポーツで読み、友人と一緒に出向いた。これは東京スポーツが独自に作ったポスターで金色と銀色の2種類あったが、アドホック後楽園に着くとそれほど人がいなかったので、私は金色の方のポスターを簡単に入手することができた。
モハメド・アリ。前の名前をカシアス・クレイといったが、当時は日本でも“世界で一番強い男”として子どもでもその名を知っていた。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す。奴には私の姿が見えない。見えない相手を打てるはずがないだろう」
「不可能とは、自らの力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉だ。不可能とは、事実ではなく、見解の一つだ。不可能とは、可能性だ。不可能など、何でもないのだ」
どちらもアリの有名な言葉だが、後者の最後のフレーズ「Impossible is nothing」は、後にアディダスのコマーシャルにも使われた。