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「ムラタで苦労したのはフォークより…」「ヒガシオの“内角攻め”はアメリカ的」三冠王ブーマーが明かす《昭和のパのエース秘話》
text by
ブラッド・レフトンBrad Lefton
photograph bySports Graphic Number
posted2022/05/01 17:00
阪急時代のブーマー。84年に打率.355、37本塁打、130打点で三冠王を獲得した
東尾はアメリカのピッチャーに似ていたかな
「アメリカのバッターは日本の経験で生まれ変わるんだ。マット・ステアーズ(中日)やセシル・フィルダー(阪神)はその好例さ。二人とも1年しか日本にいなかったけれど、アメリカに戻ったらバッティング技術がずいぶん高くなっていたからね。フィルダーは2年連続で本塁打と打点の二冠王になったし、ステアーズは中日で好成績を残せなかったが、アメリカに戻って18シーズンもキャリアを伸ばした。日本は打者にとって打撃を勉強するのに格好の場なんだ」
ブーマーにはもう一人、印象に色濃く残るベテランピッチャーがいた。
西武のエースとして通算251勝をあげた東尾修だ。村田と同様、その実力を評価しており、対戦成績は110打数33安打。打率こそ3割ちょうどだが、通算9本塁打と打ち込んでいる。
「東尾は、勝負強くていいピッチャーだった。どちらかというと投球スタイルはアメリカのピッチャーに似ていたかな。日本人バッターは結構苦しんでいた。勇気があって平気でガンガン内角に投げてくるかと思うと、次はベストピッチの外角低めのスライダーで勝負する。でもアメリカンスタイルを経験している自分としては、そのスライダーが来るのを待って打てたわけさ」
西崎はアイドル扱いだったからこそ……
村田と東尾のようなベテランとは対照的な、'80年代にドラフトされた4人の若手エース――工藤、西崎、阿波野、野茂――との対戦も楽しんでいたという。
「若いピッチャーたちも良かったね。特に西崎が印象的だった。彼の細い体を見て大丈夫かと思っていたけど、力で勝負してくるんだ。球種も豊富だったし。だが正直に言うと、ハンサムでファッション、車などで注目を集めていてアイドル扱いだったからこそ、より燃えたというのが事実かな」
ベテランから若手まで様々なタイプのエースとの駆け引きをすることで、ブーマーの打撃の幅は広がった。その結果、パ・リーグでの10年間で通算打率.317、277本塁打、901打点という成績を残した。
そんな怪人ブーマーがやっぱり忘れられないのは“オールドマン”村田兆治との対戦だった。