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「ムラタで苦労したのはフォークより…」「ヒガシオの“内角攻め”はアメリカ的」三冠王ブーマーが明かす《昭和のパのエース秘話》
text by
ブラッド・レフトンBrad Lefton
photograph bySports Graphic Number
posted2022/05/01 17:00
阪急時代のブーマー。84年に打率.355、37本塁打、130打点で三冠王を獲得した
私がロッテの監督だったら、村田の完投はゼロだね
対戦した'85年から'90年、村田は136試合に登板して43完投した。およそ3回に1回の割合で投げ切ったことになる。
「私がロッテの監督だったら、村田の完投はゼロだね。6回ぐらいで交代させるはずさ。そういう起用をしていれば、いったい彼は何歳まで投げられたんだろう」
ブーマーにとって特にやっかいだったのは村田の代名詞であるフォークではなく、スライダーだったと明かす。
「誰もが村田のベストボールはフォークだと言う。でも一番苦労したのはスライダーだね。確かにフォークもストレートも良かったが、あのスライダーの伸びは凄かった。伸びるスライダーに独特のモーションが加わると、手のつけられないピッチャーになる。モーションインにこだわり過ぎると、タイミングを崩されてしまうんだ。対戦するときの課題は集中力をモーションインからリリースポイントに移すことだった。決して簡単ではないが、そうすればより早く球種を見極めることができるからね」
35歳以降の村田もかなり難しいピッチャーだったが
当時の通訳はキューバ出身で'55年から助っ人として阪急、近鉄でプレーし、引退後はコーチなどをして長年日本球界で活躍したロベルト“チコ”バルボン。手術前の若い頃から村田の投球をずっと見てきた。
「チコはベンチで横に座って“おい、ブーマー、村田はもっといいピッチャーだったよ。信じられないぐらい難しかった”と叫び続けるんだ。“うるさいよ!”と僕は言い返していた。“今も十分苦しんでいるんだから若い頃の村田は知らなくていい”ってね。でも、振り返れば全盛期の村田を知りたかったという思いもある。どの時代でも、最も優秀なピッチャーと対戦するのは刺激的だし、勉強にもなる。やっぱり勝負してみたいものさ。ボールの質はどうか、それにどう対応するのか――興味は尽きない。35歳以降の村田もかなり難しいピッチャーだったが、若い頃に対戦していたらどんな勝負になったんだろうね」
勝負好き、研究熱心なブーマーは、村田をはじめとする日本人投手たちへの対応策を考えれば考えるほど、自身の打撃が向上していくことを実感した。
その原則は自分だけに当てはまるわけではないという。