“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
選手権に衝撃を与えた「武南パープル」にあの名門校が影響していた? ユニフォームの色にこだわった名将が伝える“遊び心”
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2021/12/27 11:08
惜しくも県予選で敗れ、100回大会への出場を逃した武南高校。1年生の10番MF松原史季は、伝統のユニフォームを着て国立のピッチに立つことを誓った
当時の武南は県内予選のベスト4止まり。全国大会出場は一度もない。しかも、有名校からの無茶なオーダーならともかく、全国的には無名だった高校の若手指揮官からの強引なオーダーである。疎ましく思われても仕方ない状況だったが、大山の熱意は伝わり、小売店もメーカー側もなんとかその要望に応えようと工夫を重ねていった。
「当時は手染めで、少しずつ染料の量と割合を変えながら、何度も染め直してもらいました。何としても他の追随を許さない自分たちのユニフォームを着て戦いたい。その思いを伝えたんです」
ようやく大山が納得する色を実現したのは、10回ほどの試作を経てのことだった。そして、理想のユニフォームが誕生して間もない79年度大会で、武南は悲願の選手権初出場を果たす。
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本大会では2回戦で姿を消したが、純白のシャツに、大山がこだわり抜いた「武南カラー」のパンツは高校サッカーファンに少なからずインパクトを与えた。それを裏付けるように、翌年の選手権の観戦チケットとパンフレットは武南のユニフォームが採用されている。
「(中継局の)日テレもあのカラーに一目を置いてくれたことが本当に嬉しかった」と大山が語るように、テレビ中継の効果も相まって武南の存在は世間に瞬く間に認知されていく。同時にスクールカラーが基本だった他の部活動も、いつしか「武南パープル」のユニフォームを採用していった。
セカンドユニフォームは韮崎の影響?
大山のこだわりはセカンドユニフォームにも表れる。当初、セカンドはスクールカラーの青だったが、第60回大会決勝で対戦した韮崎高のサッカーに衝撃と畏敬の念を抱いた大山は、優勝旗も緑色だったことから、「緑に因んだユニフォームにしよう」と再び小売店とメーカーに相談。「黄緑はあまり使われていない色だったので、それを淡くしつつ、独自の色を表現したかった」と再び何度も染め直しを依頼し、理想のカラーを手に入れた。
メーカーも初代から3社も移り変わったが、携わる人々は現在も力を貸し続けてくれているという。