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部員数1ケタの時代も…履正社高校をゼロから「甲子園優勝校」に育て上げた35年、岡田龍生監督「離れることに未練はない」 

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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photograph byHideki Sugiyama

posted2021/12/20 11:01

部員数1ケタの時代も…履正社高校をゼロから「甲子園優勝校」に育て上げた35年、岡田龍生監督「離れることに未練はない」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

この春での退任が決まっている大阪・履正社高の岡田龍生監督。35年、府大会で初戦敗退が常だったチームを甲子園で優勝する強豪校に育て上げた(写真は2019年夏)

 高校では野球1本で本格的にプレーすることを志し進学先を探したが、当時の大阪はいわゆる“私学7強”の時代で、毎年どこが甲子園に出られるのか分からなかった。甲子園出場を夢見た岡田少年が確実に甲子園に行ける高校を探していた時に、親戚の勧めで名が挙がったのが東洋大姫路だった。

「あの頃の東洋大姫路は毎年のように甲子園に出ていたので、大阪を離れることに何も抵抗なく進学を決めました。3年生になってキャプテンもやりましたが、東洋大姫路で兵庫県出身以外の選手がキャプテンになったのは僕が初めてらしいです」

 東洋大姫路では3年春に甲子園出場を果たし、ベスト4へ進出。日体大を経て、社会人野球の鷺宮製作所で1年間プレーしたのち、桜宮高(大阪)のコーチに就任した。2年間の常勤講師を終え、翌年は非常勤講師で桜宮に残ることになっていた。ところが当時、桜宮に出入りしていた福島商業(現・履正社)のOBの運動具店の関係者から、履正社で常勤講師の採用がある話を聞き、履正社で指導することになった。

 1987年春、晴れて新天地で監督生活をスタートさせたが、野球部は半年前から監督が不在のままだった。

「監督就任当初に、野球部を強化してくれとはひと言も言われていません。あの頃、グラウンドは学校の敷地内で部員も数人ほど。当時の履正社は大阪ではいわゆる“底辺校”で、全く人気もなく、選手もほとんどいない。就任前に家内とグラウンドを見に来た時は“本当にここでやるの?”と言われるほどでした」

初戦敗退、部員数が1ケタの時期も

 当時の履正社は府大会では初戦敗退が続いており、1年目は夏の大会後に3年生が引退すると部員は1ケタにまで減った。指導スタッフも岡田監督1人だけ。最初の10年間は監督、部長業を1人で兼任した。

 だが、徐々に野球部強化へ学校が協力してくれるようになった。選手が集まっただけでなく、岡田監督の指導がようやく実を結ぶようになると、97年夏に念願の甲子園出場を果たした。その時に初めて野球部部長(専任教師)の教諭を立ててもらった。その後、01年に現在の茨木市に野球部のグラウンドが完成し、直後にはのちに20年ほど岡田監督の右腕として指導にあたった松平一彦氏が野球部部長に就任するなど、体制は充実していった。

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