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元チア部の私が思い出す「彼氏が甲子園球児だった青春時代」 スポーツの強さは“社会との断絶”と引き換えなのか?
text by
小泉なつみNatsumi Koizumi
photograph byGetty Images
posted2021/08/28 11:03
写真はイメージです
「《パラリンピックの中》と《外の社会》」と言った国際パラリンピック委員会の人は、スポーツと社会を断絶させた。
でも私は20年前、野球部に甲子園に連れて行ってもらったおかげで大阪の町をはじめて歩き、生の関西のおばちゃん・おじちゃんとも触れ合った。一度もしゃべったことがない子とも、スポーツを応援しているときだけは、自然と肩を組めた。
ただそんな体験が、「スポクラ」のしつけや不本意な坊主や殺したくなるような監督との日々や学業の放棄から成り立っているのなら、その仕組みを強化するような声援は、もう送りたくないとも思う。
「強さ」を求めることは“社会との断絶”なのか?
高校球児のインタビューで、「自分は野球人として」という言葉を聞く。レーゾンデートル(存在理由)に悩む多くの学生の中で、「スポクラ」のトップアスリートたちは、「目標」も「自分がやるべきこと」も明確だ。
ただその存在理由は、卒業や、怪我や、引退などであっけなく幕を閉じる。そのとき必要なのは、いかに多くの「スポクラ以外」の社会と関わりがあるか、ではないだろうか。
最近では「脱・坊主」の流れもあると聞く。五輪では、クライミングの野中生萌選手が鮮やかなオレンジ色のポニーテールを揺らしながら競技する姿がクールだった。ネックレスのじゃら付けもキリッとしたアイメイクも素敵で、「強さ」は個性を殺すことではないんだと思った。
AirPodsを装着し、ポケットにiPhoneを入れて競技にのぞむスケボー選手は、五輪の舞台であろうとも普段のスタイルを崩さない姿が新鮮だった。失敗してしまったが、大技に挑んだ岡本碧優選手の勇気を他国の選手が称えるように、彼女を肩に乗せるシーンもあった。
競技として先鋭化されすぎていないストリート発のスポーツは、社会と地続きな感じがするし、個人をリスペクトし合う土壌があるのだと思った。
「強さ」を求めることが社会との断絶ではなく、つながりを生む。そんなスポーツの、部活のあり方を願ってやまない。