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“才能溢れるナイスガイ”木下雄介投手の早すぎる死…スクープの陰で問われる「静かにお別れする権利」と報道の自由
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKYODO
posted2021/08/12 06:00
3月、オープン戦に登板した中日の木下雄介投手
「死」は究極かつ最期の個人情報
才能に満ちたナイスガイの若すぎる死、あまりにも悲しい別れ。その経緯について少し触れておきたい。中日球団がその死を発表したのは8月6日。内容は「7月6日に倒れ、入院していた」ことと「8月3日に亡くなった」ことの2点だけだった。通常はあるはずの病院か自宅かなどの亡くなった場所や死因、通夜や告別式の日時と場所、喪主名など、記事化に必要な情報は一切なし。そもそも3日後の発表というのも少し遅いといえば遅いのだが、これらは全て「家族の意向」に従ったからだった。
木下さんには妻と幼い子供がいた。夫人の苦しみと悲しみの深さと大きさは、想像に難くない。そして、この場合の「家族の意向」とは、ただただ静かに看取り、静かに見送ってあげたいということだ。しかし、結果としてその意向はかなわなかった。球団が木下さんの死を発表した6日の時点で、まだ葬儀は終わっていなかったのだ。7月末に某週刊誌が木下さんが「重篤」であると報じたのに続き、8月6日未明に某スポーツ紙が死去を速報。同日付の紙面にも掲載した。
「事実を書く」。これは記者の使命であり、責務だ。その一方で「死」は究極かつ、最期の個人情報である。どんなに悲しい別れであっても、20年ほど前なら残された家族にも報じてもらう理由があった。故人が生前、お世話になったり、お付き合いのあった方々にお別れの場を広報する役割があったからだ。しかし、価値観は変わった。今はごく親しい人だけで見送り、必要なら後日「お別れの会」を設ける「小さなお葬式」が主流である。静かに見送るためには知らせたくない。
記者の使命は「静かにお別れする権利」より上なのか?
近年の中日でいえば、星野仙一さんや高木守道さんの家族もそれを望んでいた。決して秘密にし続けたいのではなく、あくまでも「見送ったらお知らせします」。しかし、ことごとく「意向」はかなわなかった。星野さんは木下さんと同じスポーツ紙が「スクープ」し、遺族が激怒。以後、星野家に関連する取材から、排除される期間があった。高木さんのケースは「スクープ」こそなかったが、報道各社の知るところとなり、公表された。
問われているのは「報道の自由」や「知る権利」の前では、新しく定着しつつある「静かにお別れする権利」は無力のままでいいのかということだ。今回は家族の同意だけでなく、球団にも事前の掲載通告はなかったようで、そうまでして報じるだけの公共性、正当性は本当にあったのだろうか。