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「日本代表のテレビ解説に松木さんがいないと寂しい」松木安太郎63歳に聞く“テレ朝の独占放送が厳しくなって…” 

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栗原正夫

栗原正夫Masao Kurihara

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photograph byShigeki Yamamoto

posted2021/06/17 11:01

「日本代表のテレビ解説に松木さんがいないと寂しい」松木安太郎63歳に聞く“テレ朝の独占放送が厳しくなって…”<Number Web> photograph by Shigeki Yamamoto

松木安太郎さん。1957年生まれ、63歳。1993年のJリーグ開幕からヴェルディ川崎の監督を務めた後、95年から解説者としてのキャリアをスタートさせた

「冗談を承知でいえば、ここは負けても大丈夫って試合があったりしてね(笑)。それに、いまのコロナ禍の状況を考えると、多くの規制がかかっているうえに、スケジュールや大会の開催有無など不透明な部分が多くなってきているのも事実。放送する側にとっても簡単な状況ではないでしょうからね。強い日本代表を見ていたい気持ちもありますが、転換期に来ているのかもしれません」

25年前『マイアミの奇跡』も現地解説だった

 あらためて松木さんの解説者としてのキャリアを振り返ってみる。

 Jリーグが開幕した93年からヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)を率い、当時36歳の若さで監督としてチームをリーグ2連覇に導く。直後に監督を退任すると、NHKのJリーグ中継などで解説者としての活動を始めた。その後は96年アトランタ五輪での“マイアミの奇跡”、98年フランスW杯アジア第3代表決定戦“ジョホールバルの歓喜”、98年フランスW杯初戦の対アルゼンチン戦など、日本代表の節目となる試合には必ずと言っていいほど解説者として現場で立ち会ってきた。

「そこは、本当にツイていたというか。五輪はJC(ジャパンコンソーシアム)でNHKと民放連の代表取材でしたが、テレ朝さんが多くの放映権を獲得してくれたおかげと、自分の年齢とタイミングがマッチしたのかもしれません。日本人監督としてはJリーグでも早めにやめた方ですが、日本サッカーが成長してくる時代に解説者として関われたのは幸せでした」

 解説をはじめた当時は、まだ日本代表が世界を相手に戦えない時代でもあり、国際大会で辛酸をなめたこともあった。

「(日本が28年ぶりに五輪の本大会に出場した)96年の『マイアミの奇跡』のときは、会場に複数の放送ブースがあったのに、日本は解説の僕と当時実況を担当されたTBSの松下(賢次)アナと、それにもう1人ディレクターが入るといっぱいになるような狭いところしか割り当てられず……でも、隣のブラジルを見るとそんなブースがなぜか4つも5つも割り当てられているわけです。

 ブラジルの解説には僕が現役時代から好きだったジュニオールという元セレソンの選手が来ていて、試合前に挨拶代わりにスコアを予想してもらったら『4-0か5-0でブラジルが勝つ』と言うんです。でも終わってみれば、相手のミスを突いて日本が1-0で勝った。ジュニオールに『残念だったね』なんて言おうとしたら、すでに控室からも退散していました。彼はよっぽど悔しかったんでしょうが、そのとき強い国はやっぱりこうなのかと思い、強くならないとダメだなと実感しましたね」

当日の“ルーティン”「勝率が悪いって言われたら嫌ですから」

 過去に苦い思いを経験してきたからこそ、解説の際は日本代表の勝利を願い、自らも試合に挑むような気持ちで臨んできた。

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