甲子園の風BACK NUMBER
高校女子野球の甲子園開催を「正面から反対したのは私です」 25年前、高野連が下した「女子大会の開催は時期尚早」という判断
text by
飯沼素子Motoko Iinuma
photograph by作新学院高校提供
posted2021/06/09 17:00
2019年、第23回夏の選手権大会で初優勝を飾った作新学院
主催は高野連ではなくあくまでも女子高野連
忘れてはならないのが、04年から夏の女子全国大会を開催してきた兵庫県丹波市のやさしさだ。本来なら決勝を他球場にもっていかれるのは無念なはずだが、「女の子の夢がかなうなら」とこれを容認し、開催に力を尽くすという。
様々な関係者の思いが実って開催される甲子園での決勝だが、主催はあくまでも女子高野連。そのため高野連は経済的な支援はせず、費用や審判員の手配などは丹波市や女子野球連盟が行うという。
高野連や朝日新聞社はあくまでも支援を行う立場であるため、グラウンド整備、式典準備、熱中症対策、報道対応といった、運営面のサポートを担う。
1995年、日本の女子硬式野球は高校野球から始まった
2020年に入って急速に距離が縮まった高野連と女子高野連だが、ここに至るまでには、四半世紀にわたる両者の辛く長い交流の歴史と、朝日新聞社の女子も甲子園のキャンペーンがあった。女子硬式野球誕生の経緯とともに見ていこう。
1995年(平成7年)。それが日本の女子硬式野球元年である。8月、東京都の古美術商、四津浩平(よつこうへい)が、中国のソフトボールチームと東京の高校ソフトボール部を招いて、硬球で「日中対抗女子中学高校親善野球大会」を開催したのが最初である。
当時、硬式も軟式も女子野球部をもつ高校は全国どこにもなかったため、四津は苦労して大会に参加してくれる学校を探したという。
そして96年に硬球による日本と韓国の親善女子高校野球大会を開くと、97年に高校生の第1回全国大会を開催。98年には、日本初の女子の硬式野球連盟「全国高等学校女子硬式野球連盟」を設立し、事務局長として、亡くなる04年まで高校女子硬式野球の発展に尽くした。
淑徳大学や東京外国語大学女子軟式野球部の監督経験があった四津は、自分の大会が女子野球発展のために重要なものであることを認識していた。大会パンフレットには、現場目線の次のような文章がつづられている。