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「兄はお兄ちゃんではない」 日本レスリング界の貴公子・乙黒拓斗が“精神的な問題”を克服できた理由
posted2021/04/28 11:01
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph by
Sachiko Hotaka
のびやかに。そしてしなやかに。
男子フリースタイル65kg級の乙黒拓斗は、独創的なレスリングで魅せることができるレスラーだ。その存在感は世界を見渡してもONLY ONE。従来のセオリーとは間違っても重なり合わない。
パワー系のレスラーが見せるようにドーンというイメージでタックルに入るようなこともない。せわしく動きながらスピードで勝負というタイプでもない。レスリングの重要な戦術のひとつである組み手で相手を崩しながら、軽やかにポーンというイメージで懐に入る感じといったらいいだろうか。その動きは芸術的ですらある。
初のシニアの国際大会となった2018年の世界選手権で優勝したとき、当時乙黒が在籍していた山梨学院大の高田裕司総監督は「彼のレスリングは異次元」と手放しで喜んだ。「投げられた時にも猫みたいに回転するのは天性。乙黒は平成の怪物だ」
「指を掴まれると精神的にイライラして」
しかしながら、平成の怪物は平成最後の年となる翌2019年になるとトーンダウン。同年6月の全日本選抜選手権ではリオ五輪の銀メダリストである樋口黎に惜敗を喫してしまう。結局その樋口と世界選手権の出場権をかけプレーオフで再び相まみえリベンジに成功するが、連覇を狙った同年の世界選手権では5位に終わる。前年度は全くのノーマークだったが、チャンピオンになったことでマークがきつくなったことが原因だった。
対戦相手が指を掴んで離さないといったラフプレイに出ると、乙黒は声を荒げて審判に詰め寄るなど精神的に取り乱す場面も目立った。自由なレスリングができなくなると、日本レスリング界が誇る貴公子の戦力は半減した。
現在男子フリースタイルのアシスタント・ナショナルコーチを務める前田翔吾は次のように証言する。
「指を掴まれると精神的にイライラして技も組手も単調になったところで、カウンターを食らうという感じだった」
敵は己の中に存在したのか。乙黒は昨年2月インドで開催されたアジア選手権で優勝して以来、実戦のマットから遠ざかった。エントリーした大会もあったが、新型コロナによって全て延期や中止となってしまったのだ。
それでも、乙黒が焦ることはなかった。
「もともと僕は試合勘を気にするタイプではない。試合はやっていて楽しいんですけどね」