酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
甲子園でヒジを壊した沖縄水産の“悲劇のエース”大野倫 「ぶっ殺す報道」の真相と恩師・栽監督の言葉とは
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2021/03/24 06:00
沖縄水産でヒジを痛めたものの、プロ入りして巨人・ダイエーなどにも所属した大野倫
“どう勝つか”しか考えなくなり、ヒジがプチっと……
「僕は中学時代からいろんな高校から声をかけてもらうような選手ではありました。でも沖縄水産の門をたたいた時は、"プロ野球選手になりたい"というのが一番で、高校野球はその過程だと思っていました。
でも、甲子園常連校の一日一日、一瞬一瞬が勝負という環境に田舎の中学生が放り込まれて、"甲子園に行くというのはこういうことなんだ"と痛感してしまった。そこからは毎日毎日が勝負で、その先を見据えることができなくなったんです。プロの話は棚上げして、"どう勝つか"ということしか考えられなくなった」
――栽監督と気持ちが一緒になったということですか?
「そう、チーム全体がそういうベクトルだった。よく"勝つことだけがすべてじゃない"と言いますが、当時の沖縄水産は勝つことだけがすべてでした」
――大野氏が2年時に沖縄水産は夏の甲子園で準優勝。大野氏は外野手として決勝で敗れたチームを見つめていたそうですね。
「1年上のエース神谷善治さんは背は大きくなかったけどいいスライダーもあったし、ほとんど打たれなかった。翌年は僕がメインになることは自覚していた。だから2年の時から、チームが勝ちあがっていくのを見るのはちょっと恐怖でした。"俺の年代になったら、これを上回らなければいけないんだ"と。1つ上の世代はそれくらい実力があったんです。
当時の僕はもう投げていましたが、ストライクを取るのに四苦八苦して殻を破ることができなかった。来年、この状態でマウンドに立てるかということに恐怖があったんです」
――そして新チームになってエースに指名されたが、大野氏は5月に靱帯を損傷しました。
「ブルペンで投げていてヒジの中で、プチっという音がした。そのころは毎日200球以上全力で投げていたし、試合でも投げていたから、ああついにきた、という感じでした。ボールはいかないし、フォームもダメだし、痛みは増すし」
――それでも痛み止めの注射を打って、甲子園進出を果たしました。