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フランクの交通事故、ピケとマンセルの不仲、最終戦の悲劇…F1ブームでホンダが黄金時代を迎えるまでのウラ側 

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尾張正博

尾張正博Masahiro Owari

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photograph byGetty Images

posted2021/03/11 11:01

フランクの交通事故、ピケとマンセルの不仲、最終戦の悲劇…F1ブームでホンダが黄金時代を迎えるまでのウラ側<Number Web> photograph by Getty Images

86年に優勝争いをした3人。ドライバーズタイトルは、ピケとマンセルの激闘の間隙を縫うかたちでプロストが手に入れた

「ホンダがわれわれと組むことを決断したのは、ホンダの第2期F1活動を牽引していた川本信彦だった。彼は60年代の第1期F1活動時に並行して参戦していたF2で、ブラバム・ホンダのメカニックを務めた経験から、ブラバム・チームの創始者であるジャック・ブラバムと共同創設者のロン・トーラナックとその後も深い関係にあった。83年にF1に復帰してからも、川本はロンに何度か電話していたそうだよ。というのも、私もまたロンと親しい間柄だったから、ロンが私にこう愚痴をこぼしていたんだ。『真夜中に川本からの電話で起こされて、不眠症になりそうだよ』とね(笑)。でも、川本がロンに電話するのも無理はなかった。なぜなら、スピリットのF1マシンはまるでテストマシン。それを見て、ジャックとロンが川本に『このチームじゃダメだ』と言い、われわれ(ウイリアムズ)と組むよう助言したらしいんだ」

フランクが交通事故で半身不随に

 こうしてウイリアムズと組んだホンダが、復帰後の初勝利をつかんだのは2シーズン目の84年の第9戦アメリカGPだった。転機となったのは翌85年だったとヘッドは言う。

「ECU(電子制御)が飛躍的に向上したんだ。たしか、オオツカというエンジニアだった。F1ではECUはマニエッティ・マレリ(本拠地イタリア)など専門メーカーと提携して供給してもらうのがほとんどだったのだが、ホンダは独自に開発・製造していた。インジェクターも自分たちで設計していたはずだよ。それから、この時代にF1界に初めて実戦投入されたテレメトリーもホンダが自分たちで開発していたものだ。ガレージの裏に停められたトラックの屋根に巨大なアンテナを立て、彼らは遠隔操作によりエンジンの状態をリアルタイムで見ていたよ」

 85年に4勝したウイリアムズ・ホンダは、その翌年の86年、ナイジェル・マンセルのチームメートとして元王者のネルソン・ピケを迎え、満を持してタイトルを獲りに出る。しかし、それが新たな火種を作ってしまう。

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パトリック・ヘッド
ホンダ
ウイリアムズ・ホンダ

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