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フランクの交通事故、ピケとマンセルの不仲、最終戦の悲劇…F1ブームでホンダが黄金時代を迎えるまでのウラ側

posted2021/03/11 11:01

 
フランクの交通事故、ピケとマンセルの不仲、最終戦の悲劇…F1ブームでホンダが黄金時代を迎えるまでのウラ側<Number Web> photograph by Getty Images

86年に優勝争いをした3人。ドライバーズタイトルは、ピケとマンセルの激闘の間隙を縫うかたちでプロストが手に入れた

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尾張正博

尾張正博Masahiro Owari

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「レースはホンダの企業文化。勝ち負けではなく、ホンダ車に乗っていただいているお客さまに、最高の技術をお見せするため、そして楽しんでいただくため、レース活動を再開する」

 これは、1978年の年初に開かれた記者会見での言葉である。ホンダがF1から撤退した68年以降、閉ざされていたモータースポーツ活動の扉を開いたのは、2代目社長を務めた河島喜好だった。

 ただし、初代社長の本田宗一郎が「F1をやりたい」と宣言して、いきなりモータースポーツの最高峰に挑戦した第1期とは異なり、第2期のF1活動は、ヨーロッパF2選手権へ参戦するという形で幕を明けた。このときホンダはスピリットというチームを創設。もちろん、その本来の目的はF2を戦うことではなく、スピリットとともにF1へ参戦するためだった。

 83年の第9戦イギリスGPからF1に復帰したホンダ。しかし、スピリットのF2マシンをベースとした車体には限界があった。そこでホンダはその年の最終戦に、思い切った方向転換を行う。それはエンジンの供給先をスピリットからウイリアムズに変えるという大胆な戦略変更だった。81年に設立されたばかりのスピリットに対し、ウイリアムズは、60年代からレース活動を行い、77年からは創設者であるフランク・ウイリアムズが自らの名を冠したチーム名でF1に参戦し、80年にはチャンピオンを獲得していた実力のあるチームだった。そのウイリアムズで、フランク・ウイリアムズの右腕として活躍していたエンジニアがパトリック・ヘッドだ。今回、発売中の本誌「F1ホンダ戦記」にて、ジャーナリストのアダム・クーパーがインタビュー。盟友であり後にライバルとなったホンダについて、たっぷりと語ってくれた。ここでは本誌に収録しきれなかったヘッドの言葉を紹介しよう。

「真夜中の電話で不眠症になりそうだ」

 まずはウイリアムズが83年シーズン途中に急遽ホンダと組むに至った過程について、次のように振り返った。

【次ページ】 「真夜中の電話で不眠症になりそうだ」

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