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フランクの交通事故、ピケとマンセルの不仲、最終戦の悲劇…F1ブームでホンダが黄金時代を迎えるまでのウラ側
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byGetty Images
posted2021/03/11 11:01
86年に優勝争いをした3人。ドライバーズタイトルは、ピケとマンセルの激闘の間隙を縫うかたちでプロストが手に入れた
「あの年はわれわれにとって、難しいシーズンだった。フランクは開幕前に交通事故に遭って、半身不随となってしまったからね。シーズン中盤のイギリスGPには車椅子で登場したものの、チームの運営にはまったく関与していなかった。ネルソンが加入してきたのは、そんなときだった。契約書には、一人のドライバーが他のドライバーよりも優遇されなければならないというようなことは何も書いていなかったから、あるレースで私はナイジェルにスペアカーを与えた。するとネルソンが驚いて、こう言うんだ。『フランクから常にスペアカーを使っていいと言われたから、私はこのチームに来たんだ』。事情を確認するため、私はネルソンをベッドに横になっているフランクのところまで連れて行ったよ。するとフランクはこう言うんだ。『ネルソンの好きなようにさせてやってくれ』。だから、それ以降スペアカーはネルソンに与えられることになったんだ……」
「ウイリアムズ&マンセル」対「ホンダ&ピケ」確執はあったのか
この86年、最終戦を待たずしてコンストラクターズ選手権を制したウイリアムズ・ホンダだが、ドライバーズ選手権はウイリアムズの2人が星を奪い合った結果、ライバルのアラン・プロスト(マクラーレン)とともに三つ巴で最終戦を迎える。レース中盤にプロストがパンクで遅れると、2台が快走するウイリアムズの二冠は確実かと思われた。しかし、64周目で悲劇が襲う。選手権リーダーで、自力タイトル獲得圏内の3位を走行していたマンセルのタイヤが悲鳴を上げた。
「ナイジェルがタイヤをバーストさせてリタイアしたとき、代わってトップに立ったネルソンをピットインさせずにそのまま走行させていれば、彼が優勝してチャンピオンになっていたかもしれない。なぜなら、彼のタイヤにはまだ問題は起きていなかったから。でも、トラブルに襲われる可能性は排除できなかった。難しい判断だった。実際、ネルソンはレース終盤に燃費に苦しんでペースが上がらなかったプロストを猛追して、4秒差まで迫っていた。あと1、2周あれば、ネルソンがプロストを逆転して、チャンピオンになっていただろう。それでも、ネルソンはピットインさせた私を非難しなかったよ」
当時のウイリアムズ・ホンダは、チーム内で「ウイリアムズ&マンセル」対「ホンダ&ピケ」という対立があったと言われていた。