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突然のオファーに「え、なんで俺?」選手権優勝、山梨学院“11番”廣澤灯喜はなぜポルトガルに行けたのか 

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安藤隆人

安藤隆人Takahito Ando

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photograph byNaoki Nishimura/AFLO SPORT

posted2021/02/22 17:01

突然のオファーに「え、なんで俺?」選手権優勝、山梨学院“11番”廣澤灯喜はなぜポルトガルに行けたのか<Number Web> photograph by Naoki Nishimura/AFLO SPORT

選手権決勝・青森山田戦で貴重な先制ゴールを挙げたMF廣澤灯喜。大会中に大きな成長を見せたことで海外挑戦への道が開けた

父親の言葉を受け止めた廣澤

 ここまでを見ると、シンデレラストーリーのように映るかもしれないが、廣澤のこれまでを振り返ると、このストーリーは彼が引き寄せた「必然」だったことがわかる。よく運は掛け算というが、いざそれが巡ってきたときにきちんと準備しておけるかが重要な要素だ。その点、廣澤の準備は万全だった。

 幼少の時から父親に「いつ、どこで、誰が見ているか分からないぞ」と言われ続けていた廣澤。内装業を自営する彼の父親は、腕ひとつで仕事と信頼を掴んできたのだろう。そんな経験から得た考えを息子に常に教えていたという。

《灯喜、どんな仕事でもきちんとやれば、『廣澤の内装業はいいぞ』という評判を呼んで、新たな仕事が来るかもしれない。本当に誰が見て、評価してくれるか分からないからこそ、やるべきことはきちんとやることが大事なんだ》

 一見、ありふれた言葉でも、大事なのは受け止める側の心構え。本気で我がこととして取り組めるか、ぼんやりと受け止めて取り組むのかでは、言葉の持つ意味と力は大きく異なってくる。廣澤は前者だった。

小学生で経験したスペインキャンプ

 ただ、何度も腐りかけた時はあったという。選手権に至るまで、サッカーの時間すべてが思い通りに進んできたわけではない。

 海外サッカーに憧れ、ロナウジーニョやメッシのプレーに夢中になった廣澤は、レアル・マドリーの日本スクールに通い、小5の冬にMVPに選出。限られた選手しか参加できないスペインでのキャンプを経験した。そこでは世界中から集まった同世代の選手と試合をこなし、実際にレアル・マドリーの試合を視察することもできた。

「スペインのサッカー熱は凄まじかった。サッカーが文化、生活そのものというか。街の雰囲気がサッカー一色で、マドリード市内のみんながロナウドのユニフォームやレアルのユニフォームを着ているし、スタジアムも圧巻で、選手がいいプレーするとワーッと盛り上がる一方で、悪いプレーをすると一気にブーイングに変わる。この中でサッカーをしたいと思いました」

 帰国した廣澤は湘南ベルマーレU-15小田原に進み、ボランチとして技術を磨く。しかし、U-18チームへの昇格を果たせず、さらに県内の強豪校のセレクションも落選。お世話になった指導者の縁で山梨学院にサッカー留学することになった。

 高校ではボランチから左サイドハーフにコンバート。新たなポジションで心機一転を図ったが、監督が交代するなど、目まぐるしく環境が変わったこともあって、適応できない時間が続いた。さらに度重なる怪我にも悩まされ、高校2年の1年間はほとんど思うようにプレーできなかったと悔しそうに振り返る。

「高卒でプロを目指していたのに、まったく結果が出せない自分に焦りを感じていました」

【次ページ】 「縦へ仕掛けろ」

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