ラストマッチBACK NUMBER
<現役最終戦に秘めた思い(10)>
原田雅彦「自分らしく飛んで、笑って終わろう」
posted2021/02/17 08:00
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
KYODO
1998年長野五輪で“名場面”を演出し、日本スキー界を牽引し続けたジャンパーが、競技生活最後の跳躍を前に抱いた思いとは。
2006.3.25
伊藤杯シーズンファイナル 大倉山ナイタージャンプ大会
成績
16位(134.2点)
◇
高く大きな飛行曲線を描こう。原田雅彦の心模様は、その一色だった。2006年3月25日、札幌の街を見下ろす大倉山ジャンプ競技場、ナイター照明に光る雪上には何本もの旗が揺れていた。
「ありがとう、原田雅彦」
日本の冬季オリンピック史にその名を刻んだジャンパーは、この試合限りでの引退を決めていた。彼をひと目見ようと集まった数千人の熱気が会場を包んでいた。
《よくファンの方から飛行曲線が高くて迫力がありますねと言われたんです。それを最後に見せたかった》
ひと月前、原田はイタリア北部トリノで開催されたオリンピックに出場し、そこで自らの引き際を悟った。
《時代が変わったんです。日本がメダルを獲ってから技術もルールもどんどん革新されていって、結局、私は新しいジャンプに対応できなかったんです》
1990年代、原田はジャンプ界の革命児だった。空中で浮力をとらえるため、スキー板の先を開くV字ジャンプを完成させ、K点――着地面の傾斜が変わる点、これ以上飛ぶと危険である極限点という意味もあった――を遥かに超える飛距離を実現した。
それから10年。技術、用具、ルールに至るまで列強各国の過当競争の果てに、ジャンパーの目標はかつてのK点からさらに遠いヒルサイズとなり、遠くに飛ぶための争点は飛行姿勢から助走のスピードアップへと移っていった。気づけば、ひと回りも年の離れたジャンパーたちが何人も原田の先を走っていた。