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タクシー運転手の手首を日本刀で斬り落とし、爆破テロで大臣襲撃…「最高最大の豪傑ボクサー」野口進とは何者か
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/01/24 17:02
現役時代の野口進のブロマイド。「最高最大の豪傑ボクサー」と呼ばれた
「グローブをはめての殴り合いで投げと頭突きもあったらしい。寝技があったかどうかは判らない」(生前の野口修の証言)というから、偶然にも初期のキックボクシングと近似したルールにも映る。今ならシュートボクシングに近いのかもしれない。
これより少し前の1921(大正10)年、米国帰りの渡辺勇次郎が下目黒に日本拳闘倶楽部を設立、さらに、日本で初めての拳闘だけの興行を開催する。興行的には成功とは言い難く、破産寸前まで追い込まれた渡辺だったが、神戸の嘉納財閥の嫡流に列なる嘉納健治が協力することで、風向きはにわかに変わっていく。
柔拳試合を興行的にヒットさせていた嘉納健治は、興行師としての勘で、次第に柔拳興行から拳闘興行にシフトするようになる。このことが、外国人相手に“決闘”を繰り返していた野口進の運命も旋回させることになる。
九段相撲場でのデビュー戦 相手はフィリピン人ボクサー
1924(大正13)年、神戸銀行元頭取の樽谷公一が日暮里に東京拳闘会(現・東拳ボクシングジム)を設立、旗揚げ興行を九段相撲場(靖国神社の相撲場)に決める。
そこで、東拳師範の荻野貞行は野口進に声をかけた。力士特有の突進力を買ったのはもちろん、柔拳試合の経験を積んで早い段階から顔面パンチに慣れていたこともあったに違いない。
同年11月16日「日比対抗拳闘試合」と銘打たれた旗揚げ興行の最終試合(メインイベント)に出場した野口進は、ファイティング・チゴラというフィリピンのライト級ボクサーと、十二回戦を戦い引き分けている。デビュー戦で国際戦が組まれることはあっても、フルラウンド(十二回戦)を戦うことは現在の常識では珍しい。当時の新聞は試合を次のように報じている。
《九段角力場に開かれた日比拳闘試合は、愈々二十三日午後一時から選手権争奪の最後の決勝試合を行ふ筈であるが、上海選手権保持者たるチゴラ対野口は、過般の試合に十二回にてドローとなったが、この一戦が当日の観者であろう》(大正13年11月23日付/東京朝日新聞 ※読点は筆者)
さらに1週間後、同じくフィリピン人のキーコと十回戦を戦いこれも引き分けている。詳しい試合内容は判らないが、結果だけを見れば合格点と言えるだろう。
ガードもお構いなしに、相手を叩きのめすスタイル
その後、阪急東宝グループ創業者、小林一三の異母弟で実業家の田辺宗英(のち日本ボクシングコミッション初代コミッショナー)を会長とする帝国拳闘会拳道社(現・帝拳ボクシングジム)が設立されると、野口も数人の選手とこれに参加。しかし、資金難で道場が閉鎖されると、神戸に本部を置く大日本拳闘会(大日拳)に移籍する。
大日拳の会長は、嘉納健治である。
拳闘興行に本格参入した嘉納健治は、東京の拳闘選手を片っ端から引き抜いた。野口進もその1人だったのが通説となるが、少年時代に嘉納健治から直接話を聞いたという野口修曰く、これには前段があったという。