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タクシー運転手の手首を日本刀で斬り落とし、爆破テロで大臣襲撃…「最高最大の豪傑ボクサー」野口進とは何者か
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/01/24 17:02
現役時代の野口進のブロマイド。「最高最大の豪傑ボクサー」と呼ばれた
《堀口のボクシング・スタイルはこの国粋主義の風潮にあまりに符合していた。大和魂という空無な精神主義の中に堀口をおくと、そのノーガードで打ちかかる無謀なボクシングが見事にマッチしていたのだ》(『ピストン堀口の風景』山本茂著/ベースボールマガジン社刊)
新星、ピストン堀口の台頭は、野口進の心境にいかなる影響を及ぼしたのか。それはまったく判らない。判らないが、その年の10月、イギリス人ボクサーのハーレイン・ユウインにKO負けを喫した野口進は、11月21日、元首相の若槻礼次郎にテロを仕掛けるも、果たせず、懲役七年の刑を言い渡され(控訴審で五年に減刑)、堀口と入れ替わるように現役生活に終止符を打った。実働9年で通算成績は56戦35勝7敗14分。事件に至る詳しい経緯は拙著で確認されたい。
出所後、一家で上海に渡った野口進は、野口興行部を設立。ディック・ミネや淡谷のり子といった歌手を招聘し、軍人の慰問興行を手掛けたのち、戦後は愛媛県新居浜市で13歳の三迫仁志(三迫ボクシングジム創始者)と邂逅。東京・目黒の雅叙園前に野口拳闘クラブ(現・野口ボクシングジム)を開き、三迫仁志をはじめ、金平正紀(協栄ボクシングジム創始者)、海老原博幸(その後の世界フライ級王者)らを輩出している。つまり、具志堅用高も輪島功一も鬼塚勝也も、そのルーツは野口進に辿り着くことになるのだ。
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1961年、次男の野口恭が日本フライ級王座を獲得し、史上初の親子日本王者に輝くと、大量の飲酒ののち昏倒。七日後の1961年5月8日、そのまま息を引き取った。壁には吐いた血を指でなぞって「恭、チャンピオン、ばんざい」と書かれていたという。
稀代の豪傑は、直情径行らしく慌ただしく逝った。