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タクシー運転手の手首を日本刀で斬り落とし、爆破テロで大臣襲撃…「最高最大の豪傑ボクサー」野口進とは何者か
posted2021/01/24 17:02
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
KYODO
井上尚弥、井岡一翔、村田諒太ら7人もの世界王者を輩出するなど、黄金期の只中にあると言っていい現在の日本のプロボクシング。
しかし、「拳闘」と呼ばれた黎明期について書かれた書籍は思いのほか少ない。もちろん、ボクシングだけに関して言えば一連のモハメド・アリの書籍をはじめ、マイク・タイソンの半生を赤裸々に綴った『真相─マイク・タイソン自伝』などのノンフィクション、『一瞬の夏』(沢木耕太郎)、『殴り殴られ』(安部譲二)、『遠いリング』(後藤正治)など一流の書き手による名作もあるにはあるが、野球やサッカーと比較して、ルーツを詳細に記した書籍は、市民権を得たプロスポーツにしては少ないかもしれない。
「最高最大の豪傑ボクサー」とは何者か
筆者は『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)を著述するにあたって、主人公野口修の父、野口進の人生もつぶさに追った。
「最高最大の豪傑ボクサー」(直木賞作家の寺内大吉)と称される黎明期の人気拳闘家にして、テロをも辞さない右翼の壮士……。野口進は長男の修に劣らない数奇な人生を送った人物である。
彼は何者なのか。彼の人生は活況を呈する日本ボクシングにいかなる影響を与えたのか。ここでは、拙著では触れなかった側面にも焦点をあてながら、稀代の豪傑、異能の拳闘家の波乱の生涯を追ってみたい。
野口修の父、野口進は1907(明治40)年、東京市本郷区根津宮永町(現・東京都文京区根津)に生まれた。
少年時代から喧嘩上等の腕白坊主として上野界隈で名を馳せたことは、取り立てて変わった履歴とは言えない。人生が動き始めるのは、尋常小学校卒業後に働いた問屋の店主に「草相撲」を勧められてからである。
1925(大正14)年に財団法人大日本相撲協会(現・公益財団法人日本相撲協会)が設立され、国技館での「大相撲」が定着するまで、相撲興行は寺社で行う勧進相撲、宮相撲、素人相撲等々、その形態は乱立していた。草相撲もその一つで、野口進も「宮の森」の四股名で根津神社を拠点に横綱を張っていた。
「根津権現で横綱なら、職業相撲(大相撲)から誘いがあっても不思議はないし、担がれて地元の名士になることもあった。それで政治家になった人も多いんですよ。彼らはメシも女も不自由しなかったはずです」(三郷市在住の元草相撲力士の白井利助 ※拙著より抜粋)
柔術家と外国人水夫の真剣勝負から生まれた「柔拳試合」
そんな野口進だが、喧嘩癖は治らず、上野を離れ横浜港に身を隠した。そこで出会ったのが「柔拳試合」だった。
黒船来航から始まった日本の他流試合の歴史において、柔術家と外国人水夫(ボクサー)の試合はスリリングな試合展開で好評を博すようになる。これが柔拳試合の発祥で、その流れを汲んだ賭けを対象とした真剣勝負が、横浜の賭場や教会で連夜行われていたのである。