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天才は藤井聡太だけではない “振り飛車のカリスマ”藤井猛が作った常識破りの「システム」
text by
高川武将Takeyuki Takagawa
photograph byKYODO
posted2020/09/16 08:00
2000年12月26日、竜王戦で羽生善治五冠(右)に勝利し、3連覇を果たした藤井猛竜王(肩書はいずれも当時)
奨励会に入ったとき、同い年の羽生はすでに……
「本当にショッキングでした。最初はふざけてるのかと思いましたよ。噴飯ものってヤツです(笑)。昔の棋士が見たら間違いなく怒るでしょう。でも、そこに可能性があるとわかって、将棋の鉱脈の奥深さを感じましたね」
当時の驚きを振り返る羽生の言葉には、実感が籠もっていた。
一体なぜ、藤井は、誰もが思いつかなかった斬新な戦法を発想し開発することが出来たのだろう。背景には彼の異色の経歴がある。
あまりにもスタートが遅かった。群馬県沼田市。山と畑に囲まれた長閑な小学校で、友人から将棋を教わったのは10歳のときだ。
本格的に始めたのは中学に入ってからだが、将棋教室に通うでもなく、1人、本や専門誌を読み漁り研究に勤しんでいた。
プロ養成機関の奨励会に入ったのが15歳、高校1年生の春。そのとき既に、誕生日が2日しか違わない羽生は、史上3人目の中学生棋士としてデビュー、天才と謳われていた。
藤井は実戦経験が圧倒的に不足していた
羽生を始めとするエリート棋士たちは、基本的に都心に住み、幼少期から月に100局という莫大な数の実戦を積む中で実力を養ってきた。
今でこそ、インターネットを通して、全国どこでも誰とでも将棋を指せるが、当時はネットのない時代。藤井が奨励会入会まで指した対局数はわずか200局ほどで、圧倒的に実戦が不足していた。
奨励会は25歳までにプロ四段にならなければ、自動退会となってしまう。
「この坂道を登りきらなきゃと、プロになることに必死でした」
当時の藤井の指にはいつも絆創膏が巻かれていた。マメができるほど、駒を指し続けた。
20歳で念願のプロになり、勝ち星を順調に重ねて行くものの、周囲の評価は平凡な棋士のそれだった。藤井システムを考え始めたのは、プロ入り5年目、'95年のことである。
将棋の戦法には、大きくわけて居飛車と振り飛車があり、多くの棋士は「王道」とされる居飛車党だが、藤井は将棋を始めた頃から振り飛車党、中でも4筋に飛車を振る四間飛車の使い手だった。
だがやがて、四間飛車の大敵「居飛車穴熊戦法」が台頭してくる。盤の隅に玉を囲う戦法で、囲ってしまえば無類の守備力を誇り、なかなか崩せない。