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50年前の選手宣誓に衝撃を受けた。
甲子園の変化は成長か、それとも……。
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byKyodo News
posted2020/08/18 11:30
50年前の甲子園も満員だった。定型文を読むことと、大人の期待に応えた言葉を発すること、自由なのはどちらだろうか。
高校生が「勇気と活力を与える」こと。
20世紀の甲子園は、なんだかんだのんびりしたものだった。外野席は無料、近所の小学生、中学生が自転車でやってきて、お昼ごはんを食べに帰り、また夕方に戻ってくる光景を見て、羨ましいと思った。
いまや、気軽に見に行ける大会ではなくなった。さらには高校野球の社会的な影響力が大きくなってきたこともあり、大会運営にかかわる大人たちの責任感もそれに比例して大きくなった。
選手宣誓が定型文から脱し、長文、作文、スピーチ化していったのは、社会的な影響力が増している状況で、大会としてなんらかのメッセージを発しなければならないという、責任感の表れではないか。
そして大人の、高校生に対する期待が文章に込められるようになった。
たとえば、今年のこんな文章だ。災害の被災者に対するメッセージだ。
「明日への勇気と活力を与えられるよう、選ばれたチームとしての責任を胸に」
未成年である高校生だったら、もっと、シンプルに野球だけに集中してもいいんじゃないか――と私は思ってしまう。
成長の証か、大人への忖度か。
時を戻そう。
1968年の大人たちは、どんなことを感じていたのだろうか。
市川崑の映画を見ると、当時の大人たちは、戦争責任を強く感じていたことがうかがえる。
開会式で、平和の象徴である鳩をことさら映すのは偶然ではないだろうし、昭和11年夏に優勝した岐阜商業のメンバー、9人のうち5人が戦死したことが語られ、若者たちを二度と戦禍に巻き込むことのないように、という意志が明確に働いている。
選手宣誓では、「戦い抜く」という言葉ではなく、「試合すること」が用いられている。
今年は「戦う」という言葉が二度使われているが、50年前の大人は、「戦」という漢字にことさら敏感だったのかもしれない。
1968年、日本の大人は、子どもたちになにかしらの責任を負わせるよりも、高校生がのびのびと野球が出来る社会を作ることを優先させていたように見える。
2020年、高校生の言葉として責任が語られることを評価すべきだ、という人もいるだろう。それを成長の証だと読み解くことも可能だ。しかし、大人の期待を敏感に察知する高校生が大量に出現してしまったのは、大人の責任ではないのだろうか。
2020年8月、市川崑のドキュメンタリーと代替大会を見て、夏の甲子園は日本社会を映すひとつの鏡であることを改めて実感した。
大人、高校生、そして教育現場の変遷。
第50回記念大会に出場した高校3年生は、今年70歳を迎えた。
今年の高校3年生が70歳を迎えるのは、2072年。
そのとき、日本はどうなっているのだろうか。