畠山健介のHatake's roomBACK NUMBER
畠山健介から引退する3人の先輩へ。
大野均、湯原祐希、佐々木隆道。
text by
畠山健介Kensuke Hatakeyama
photograph byAFLO SPORT
posted2020/06/18 11:30
ラグビー界を牽引してきた先輩の引退を悲しんだ畠山(左)。フッカー湯原(中央)とはポジションも近いこともあり、若い頃から苦楽を共にしてきたという。
タカミチさん自身が刀そのもの。
キンさんが侍のような選手なら、タカミチさんは刀鍛冶のような選手だった。
自分のプレースタイル、信条、信念、ラグビー観、ラグビー道を、自分が納得するまで、ひたすら磨き続ける、そんな選手だった。
刀鍛冶というより、タカミチさん自身が刀そのものだったのかもしれない。
鞘におさまらず、常に抜き身の鋭すぎる刀はタカミチさん自身や対戦相手だけでなく、仲間に向けられることも多々あった。
早稲田大学時代、どんなミスに対しても厳しく、安易なミスは絶対に許容しない。
グラウンドでは時に当時監督だった清宮(克幸)さんよりも、選手たちに緊張感を与える存在だった。
4年の主将時に、「これ以上、今(早稲田の選手だけ)の環境では上達できない」と、春シーズンの途中でスーパーラグビー、オーストラリアのレッズ(アカデミー)へラグビー修行。
キャプテンとしてチームをまとめ、ともに研鑽を積むというよりも、ひたすら独りで刀を磨き続ける、フルマラソンを100m走のように走り抜けようとする求道者のような生き方。
速く、厳しすぎるペースについていける選手は同世代や後輩はもちろん、諸先輩方を含め、決して多くはなかった。
早稲田大学時代、僕は先輩、後輩という立場を意識して併走することはできなかった。
先頭を走っていたあの男が。
サンゴリアスでともにプロラグビープレーヤーとして戦い、グラウンドの外での会話や、お酒やお茶を介して会話が増えていくうち、先輩・後輩という関係性から、日本ラグビーのためにともに戦う仲間というふうに変化していった。
誰よりも先頭を走り、まわりも見ずに一切の妥協を容認しなかったラグビー求道者の「あの」佐々木隆道が、(日野に移籍してからは特に)己のプレーだけでなく、地域にラグビーを根付かせるために「ラグッパ体操」というものを開発して、「撮影に協力して欲しい」と連絡をくれた時は良い意味で驚いた。
あれだけ皆を置き去りにするペースで走ってきた男が、今はどうすれば多くの人にラグビーを愛してもらえるかを考えている。
前述したように、タカミチさんら'83年組は、ラグビー界の一時代を築いた黄金世代だと個人的に思っている。
今の若手選手のようにフィジカルに傾倒したスタイルとは違う、ラグビー偏差値が異常に高い人たちの集まりだった。
ユハさんも含め他にも多くの'83年組の原石たちがトップリーグや日本代表で輝きを放ち、日本ラグビー界のベンチマークを1つ上に押し上げた。そんな黄金世代の'83年組も年々、減ってきている。'83年組だけでなく、僕の同期や後輩たちもどんどん引退していく。