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日韓W杯の招致が決まった日。
「共催」への落胆と本大会の熱狂。

posted2020/05/31 09:00

 
日韓W杯の招致が決まった日。「共催」への落胆と本大会の熱狂。<Number Web> photograph by Kyodo News

2002年のW杯が決まった時、誘致を喜ぶ人と共催であることにがっかりする人がいたことは記憶される価値がある歴史であろう。

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戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

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Kyodo News

 あれから24年が経っても、どこかすっきりしない思いを抱く人はいるに違いない。

 1996年5月31日、2002年のサッカーW杯の開催国が決定した。ヨーロッパと南北アメリカ以外で初となるW杯は、21世紀最初のW杯は、日本と韓国による史上初の共同開催となった。

 日本の強みは国際大会の開催実績だった。ヨーロッパと南米のクラブ王者が一発勝負で対戦するトヨタカップを、1980年から開催してきた。'93年にはU-17世界選手権のホストを務めた。古くは'79年に、のちにU-20ワールドカップと呼ばれるワールドユース選手権の舞台となっている。

代表チームの弱さがネックだった。

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 逆に弱みとなっていたのは、代表チームの実績だった。

 招致レースを戦っていた時点で、日本代表はW杯に出場したことがなかった。'86年から'94年まで3大会連続でアジア代表を勝ち取り、通算で4度のW杯に出場している韓国に、はっきりと差をつけられていた。W杯に出場したことのない国が開催国となった例は、それまで一度もなかった。

 その一方で、急成長を印象づけるトピックもあった。

 1993年にJリーグがスタートして競技基盤が整ったところで、年代別代表が世界へ羽ばたいていく。'95年にU-17日本代表がアジア王者としてU-17世界選手権に出場し、U-20日本代表はワールドユースでベスト8進出を果たした。大学生のタレントが集結するユニバーシアードでは、史上初の金メダルを獲得した。

 翌'96年には28年ぶりの五輪出場を勝ち取り、本大会ではブラジルを破る“世紀のアップセット”を演じた。「2002年大会で主力になる世代が、世界の舞台で着実に結果を残している」というのが、競技力の観点から見たアピールポイントだった。

【次ページ】 武器はFIFA会長とのパイプ。

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