オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(9)>
笠松昭宏「栄光の架橋の影で」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2020/05/03 09:00
男子団体総合で惜しくもロシアに敗れ、4位となった笠松昭宏。自身「ほぼ完璧」と振り返る演技を見せていた。
リビングの棚にあったはずの金メダル。
笠松家の自宅リビングには洋間とよく調和した棚があり、そこには体操にまつわる数々のトロフィーとともに、金色のメダルが飾られてあった。
1972年ミュンヘン五輪の団体で父・茂が獲得したもの。誇るべきもの。ただ、なぜか一家団らんのなかでオリンピックの栄光が語られることは少なかった。
「父親も自分からオリンピックの話題を振るようなこともなかったですし、家族の中でそういう話がでることはまずなかったです。だから僕は父の過去についての番組を見たり、周りの人から聞いたりして何があったかを知ったんです」
語られない栄光。その原因は1976年モントリオール五輪で父を襲った悲劇にあった。父はその2年前の世界選手権で個人総合を制し、オリンピックでは金メダル最有力と言われていたが、現地入りしたあと試合直前に虫垂炎で倒れると、そのまま欠場を余儀なくされたのだ。
エース不在の日本が塚原光男らの奮起によって団体優勝を飾り、本命笠松不在の個人総合ではソ連の選手が金メダルに輝く様を、ただ見つめるしかなかった。父は失意のどん底に落ちていた。そしてまさにその日、1976年7月22日。日本で長男・昭宏が産声をあげたのだった。
「あのときの父はすべてが真っ暗になってしまったようで、本当に沈んで何もできないような状態だったそうです。その日に僕が生まれて……。ひと筋の光が差し込んだようだったと母は言ってました」
父が不在のとき、母がそんな話をしてくれた。母・和永もメキシコ、ミュンヘンと五輪2大会に出場した体操選手である。
リビングの棚にあるはずだったもう一つのメダル。その欠落感が誇るべき父母のオリンピック戦歴に影を落としていた。
体操選手になることを止めた父。
「父に体操をやれと言われたことはありません。ただ、父が出られなかった個人総合の日に僕が生まれたわけですから。物心ついたときにはもう、僕がオリンピックで金メダルをとるんだという気持ちでいました」
3歳の頃から笠松の遊び場はマットの上だった。父が引退後、愛知県内に開いた「笠松体操クラブ」。つり輪や鉄棒、マットなどあらゆる器具がならんだ遊園地のような広々とした空間。父はそこで女子選手を指導し、息子に教えることはなかったが、笠松は見よう見まねで育ち、そして15歳のときに選手になりたいと告げた。
「どちらかというと父からは止められました。どうしてもやりたいのであれば応援はするけど、苦しいことを続けていかなければならない。だから無理することはないんだと。そこで僕は自分の意志を伝えたんです」
あの棚にあるべきメダルを取り戻す。他の誰でもない。運命は自分で決めたのだ。