ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
武藤敬司が語る伝説の高田延彦戦。
「プロレス史に残る作品が残せた」
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2020/04/07 20:00
1995年、禁断の一騎打ちとなった武藤敬司(右)と高田延彦の一戦。当時の記録を塗り替える6万7000人が東京ドームに駆けつけた。
“電波少年”ばりの強引な交渉。
'92年末には、蝶野正洋が雑誌のインタビューで「高田さんと闘ってもいい」と発言すると、すぐさま取締役の宮戸優光と安生洋二が、当時Uインター顧問を務めていた伝説の世界王者ルー・テーズを引き連れて新日本事務所にアポなし訪問。当時の人気番組『進め!電波少年』ばりに強引な方法で、対戦交渉を行った。
'93年には新日本の外国人エースだったビッグバン・ベイダーを引き抜き。さらに'94年、Uインターは優勝賞金1億円を用意したトーナメント開催をぶち上げ、新日本を含む主要5団体のエースに対して一方的に参戦招待状を送付した。
この事前の根回しのないやり方に、新日本の現場監督だった長州力が激怒し、これらの仕掛けを主導した“Uインターの頭脳”こと宮戸優光に対し、「あいつがくたばったら、墓にクソぶっかけてやる!」と、言い放ったのは有名な話だ。
プロレスの試合を行うには、最低限の信頼関係は不可欠。その信頼関係がまったく築けていない新日本とUインターの直接対決は不可能と思われていた。それがまさかの全面対抗戦実現に至った背景には、両団体の財政的な問題があった。
「両団体にとってやらなければいけなかった」
Uインターは旗揚げ以来、イケイケでマット界に話題を振りまいてきたが、総合格闘技に近いスタイルだったこともあり興行は月に一度のペース。大きなスポンサーもついていなかったため、前述した“1億円トーナメント”が不発に終わったあとは、資金繰りが悪化していたのだ。
そして新日本も、'95年4月28、29日に北朝鮮で開催した『平和の祭典』で2億円とも言われる負債を抱えていた。それまで険悪な関係だった新日本とUインターが突如として歩み寄ったのは、双方の利害が一致したからだった。
昨年、高田延彦にインタビューした際、新日本との対抗戦実現に至るいきさつをこう語っていた。
「新日本との対抗戦の話が持ち上がったのは、たしか('95年)8月ですよ。向こうからそういう話が来て、白金台の(シェラトン)都ホテルで、永島(勝司)さん、長州(力)さんとミーティングをしてね。そこで利害が一致したんですよ。俺はUインターの社長だったし、借金を返済しなきゃいけない。それで新日本は新日本で、まとまったお金とドーム興行の目玉が必要だった。あの時点で、新日本との対抗戦、そして俺と武藤というマッチメイクが、一番大きなお金を生む方法だったことは確か。だから結果論で言えば、あれは両団体にとってやらなければいけなかったんだよ」