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皇帝ヒョードルと日本の深く長い縁。
リングスの補欠扱い、ミルコの一言。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byGetty Images
posted2019/12/26 11:15
2005年8月28日、超満員となった会場で行われたヒョードルvs.ミルコ戦。見事、判定勝ちを収めた。
出発点はリングスだった。
もともとヒョードルの総合格闘家としての出発点は、前田日明が主宰していたリングスだった。2000年にロシアで行われたリングスのオーディションで見出されて同年9月に初来日したが、当時はとくに期待の新人というわけではなかった。オーディションで即契約に至ったのは、サンボ世界王者の肩書きを持っていたスレン・バラチンスキーであり、ヒョードルは“補欠”扱いだったのだ。
事実、ヒョードルが初参戦したのはリングスの本戦ではなく、小規模な後楽園ホールで開催された、『BATTLE GENESIS』という育成大会で、リングスを全戦放映していたWOWOWのテレビ放送もなかったのである。
この第1戦で、ヒョードルは和術慧舟會所属でレスリングの実績があった高田浩也を右ストレート1発、わずか12秒でKO。ファンや関係者に衝撃を与える。この時ヒョードルは打撃の練習を始めてまだ2カ月だったというから驚きだ。
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その後、ヒョードルは才能を開花させ、リングスではヘビー級と無差別級の2階級王者に君臨。'02年2月にリングスが活動休止した後はPRIDEに戦場を移し、ここでも連勝を続けると、'03年3月16日の『PRIDE.25』でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが持つPRIDEヘビー級王座に挑戦。大方の予想を覆し、判定勝ちでPRIDEの頂点に立った。
「一番欲しいのはヒョードルの首だ」
そしてヒョードルがPRIDE王者となった翌日、のちに宿命のライバルとなるミルコ・クロコップがK-1からPRIDEへの移籍を表明。ここから格闘技界は激動の時代に突入する。
この前年、国立競技場に9万人の大観衆を集めた『Dynamite!』を開催するなど、格闘技界の覇権はK-1が握っていた。ところがK-1のスターであったミルコは、ヒョードルがPRIDE王者になった2週間後、K-1さいたま大会で、当時人気絶頂だったボブ・サップを左ストレート一発でKO。その直後にK-1離脱を表明して、PRIDEに主戦場を移したのだ。
ここからPRIDEとK-1は協力関係を解消。仁義なき戦争時代に突入する。その開戦の号砲と言うべき、ミルコの発言がまた強烈だった。
「今のK-1は、サップのようなフリークショーが横行し、俺が命を削るようなトレーニングを積んで挑むような権威がなくなってしまった。今、俺が一番欲しいのは、K-1のウイニングローレルではなく、PRIDEヘビー級のベルト。そしてチャンピオン、エメリヤーエンコ・ヒョードルの首だ」
ミルコのこの一言は、日本における格闘技の最高権威は、K-1ではなくPRIDE王者であると、多くの人たちに認識させた。さらに当時はまだノゲイラを破りPRIDE新王者となったものの、知名度が足りず地味な印象があったヒョードルの名を大いに高めることとなったのだ。