令和の野球探訪BACK NUMBER
古豪復活を目指す沖縄水産の今――。
甲子園請負人が秘める夏への期待。
text by
高木遊Yu Takagi
photograph byYu Takagi
posted2019/11/17 09:00
甲子園準優勝記念碑の前で写真に収まる上原忠監督。沖縄の球児たちとともに「甲子園請負人」が22年ぶりの夏を目指す。
2016年春にやってきた「請負人」。
前述したとおり、近年はこの両校が沖縄県内の「2強」を形成してきた。県民悲願の甲子園制覇は1999年春に沖縄尚学が果たし、その後、2008年春にも優勝。2010年には興南が春夏連覇を達成。そんな中でも上原は、中部商業高校と母校であるの糸満高校を率いて、それぞれ2回ずつ甲子園に導いてきた。実業校と進学校、カラーの異なる公立校で甲子園に導いた手腕は高く評価され、いつしか「甲子園請負人」とよばれるようになった。
また、中部商では糸数敬作(元日本ハム)、金城宰之左(元広島)、屋宜照悟(元ヤクルト)、糸満では宮國椋丞(巨人)、神里和毅(DeNA)とNPBへ教え子を送り込み、中学教諭時代には沖縄尚学で県勢初優勝した際の主将である比嘉寿光(元広島)を指導。育成の実績も申し分ない。
沖縄水産には2016年春に異動。その年の秋から監督を務めている。赴任当初は、裁が率いて全国で躍動したかつての面影はどこにも無かった。部員数も新入生の入学前とはいえ2学年でたった20人。上原自身も「これが本当に沖水の選手か」と思ったのが正直なところだった。
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グラウンドは芝が伸び放題で、使われず錆が入っていた用具もあった。
バックネット裏の部屋には、準優勝時の太鼓などもあるが、就任当初は埃が被っているような状態だった。
「打ちやすいように打ちなさい」
取り組んだのは環境整備からだった。過去の栄光にすがるどころか、用具に錆が入り、埃を被ってさえいた状況を変えていった。同時にかつての名門ゆえの眠っていた財産も最大限に活用した。
まずはメイングラウンドの改修だ。弱体化したチームはサブグラウンドでこじんまりと練習していたが、これで二面丸々どちらも試合ができるグラウンドを有する全国屈指の環境となった。
また、経験豊富なOBをコーチに据えた。上原自身は沖縄水産のOBではないが、中学時代の教え子で'91年の甲子園準優勝時の主将、のちに社会人野球の沖縄電力でも活躍した屋良景太を招聘。さらに地元・糸満市出身の末吉朝勝、そして2人の推薦で沖縄電力でヘッドコーチまで務めた野原毅を呼び、それぞれ週末の練習に参加している。上原は「僕は全体を網羅するコーディネーターのようなもの。この3人の力は僕より大きいかもしれません」と笑う。
指導の基本は「少年野球を教えるのと一緒。ああしなさい、こうしなさいと言うのではなく基本だけ教える。打ち方でも僕のやり方というのはなく、打ちやすいように打ちなさいと伝えます」と話す。
「チーム作りは学校や選手たちによって異なります」
それゆえにタイプの異なる2校を甲子園に導き、投手・野手問わずにプロの世界にも飛躍させているのであろう。沖縄水産でも徐々にその芽は出つつある。