才色健美な挑戦者たちBACK NUMBER
ルヴァン杯初優勝に貢献した小林悠の
試練と共に歩んだサッカー人生。
posted2019/11/06 11:00
text by
林田順子Junko Hayashida
photograph by
Yuki Suenaga
試合直前の20日、練習試合で右足首を捻挫し、この日はベンチスタート。それでも途中出場から2点を挙げる活躍を見せ、チームを優勝へと導いた。苦難からの栄光──それはまるで彼のサッカー人生のようでもあった。
小学校までサッカーでは一番だったんですよ。それが中学に入ったら身長が全然伸びなくなって、足も速くならなくなった。周りが大きく成長していくなかで、いきなりみんなよりも劣りだして、自分だけが置いてけぼりになったように感じていました。あの時は子供だったし、精神的にもちょっときつかったですね。
小学生のときに活躍をして、少し名前が知れてしまったこともあって、その期待に応えなくてはという気持ちもありました。うちは母子家庭だったので、遠征費や道具を揃えるのもお金がかかって大変だったと思うんです。だから、お母さんの期待に応えたい、恩返しがしたい、楽にさせてあげたいという、ハングリーな気持ちがありましたし、調子が上がらなくても自分の中ではやめるという選択肢はありませんでした。もちろんサッカーが好きだったというのもありますが、そういう気持ちがなければやめていたかもしれません。
高校卒業時、大学か自衛隊かで悩んだ。
小学校では絶対にプロになれると思っていましたが、中学になってからは力不足でしたから、プロになれるとは思っていませんでした。ただ、進学した高校はそんなに強い学校ではなかったのですが、いい仲間と出会えて、全国高校サッカー選手権の神奈川予選で2年連続優勝することができました。それでもプロになれると思っていなかったし、実際オファーもありませんでしたから(笑)。
だから、高校を卒業する時は大学でサッカーをやるか、自衛隊に入って仕事をしながら社会人リーグでサッカーを続けるかで悩みました。実際、自衛隊からはオファーをもらっていましたし、大学に行くとなるとまたお金がかかってしまうので……。結局、大学に行くことになって、関東2部リーグではありましたが、1年のときから試合に使ってもらえたり、選抜にも入れるようになって、少しずつスカウトの目に止まるようになって。もしかしたらプロになれるかもしれない、と思ったのは、その頃からです。
なかでも地元・神奈川の川崎フロンターレからオファーが来たときは本当に嬉しかった。母親が毎試合見に行けるね、ってすごく喜んでくれたのを今でも覚えています。
妻の前で泣いてしまったことも。
ところが入団前の大学4年のときに、前十字靭帯断裂という大きな怪我をしてしまったんです。入団したとしてもシーズン序盤は、治療に専念することになる。正直、入団の話はなくなるかもしれないと思いました。不安のなか、スカウトの向島建さんに電話をしたんです。そうしたら「同じ怪我をした選手がフロンターレにいるけれど、しっかりと乗り越えて今では活躍しているから、悠もしっかり自分の怪我と向き合って乗り越えれば、まだ1年目だし大丈夫だよ」って言ってくださって。ほっとして涙が出たのを覚えています。
僕は膝の手術だけでも5回ぐらいしていて。一番多いのは肉離れだけど、半月板の損傷や眼底骨折もしました。特に2015年は怪我が多くて、ヨガをしたり、食べ物にも気をつけたり、色々なことをやって誰よりも努力をしているのに、なぜか怪我をしてしまう。色々なことにストイックになっているのに、それでも治らないし、何をしたらいいんだろうと精神的にキツくて。妻もすごく協力をしてくれていたので、怪我をして家に帰ったときに、申し訳ないし、情けないしで、妻の前で泣いてしまったこともありました。
練習の直前に来て、ポンと練習しても怪我しない選手もいるのに、1時間以上も前に行って、ケアをして、補強をして万全の状態にしても怪我をしてしまう。努力しているのに、結果に結びつかないことが悔しかったし、どこにぶつければいいのかと苦しかった。でも、今振り返るとストイックすぎたのが逆にダメだったのかもしれないと思っています。