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大学時代から「風間イズム」を知る男。
点取り屋・赤崎秀平は名古屋で輝くか。 

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安藤隆人

安藤隆人Takahito Ando

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photograph byTakahito Ando

posted2019/05/12 08:00

大学時代から「風間イズム」を知る男。点取り屋・赤崎秀平は名古屋で輝くか。<Number Web> photograph by Takahito Ando

第10節時点、すでにリーグ戦3得点をマークする赤崎秀平。チーム内ではエースのジョーに次ぐ数字だ。

「七光り」と呼ばれるのが嫌だった。

 だが、彼が選んだのは鹿島アントラーズだった。この決断にはある思いがあった。

「心の中で『風間さんの下でしか成功できない』と思われたくない気持ちがどんどん強くなったんです。4年の時、フロンターレの練習に呼ばれたのですが、一緒に行った(谷口)彰悟は高校時代から声がかかっていた存在だったし、僕とフロンターレの縁は完全に風間さんだけだったんです。風間さんがいたから、練習参加をさせてもらったという印象があって、余計に他のチームに行きたいと思ったんです。

 正直、『七光り』と呼ばれるのは嫌だった。『風間さんの下だから、点を取っているんだろ』と思われたくなかった。鹿島というクラブも本当に魅力的だし、競争が激しいチーム。ここで自分が挑戦をして、自分の力を証明したい気持ちが強かった」

 鹿島ではルーキーイヤーからリーグ15試合で5ゴールをマークし、幸先のいいスタートを切った。翌年の2015年にはリーグ22試合出場で7ゴールを挙げ、ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)ではニューヒーロー賞に輝いた。プロ3年目の'16年シーズンは、リーグ24試合に出場するなど、まさに自らの力を証明していった。

苦しんでいた赤崎を救った風間監督。

 だが、順調だったプロ生活に徐々に暗雲が垂れ始めていた。

 出場機会を失いつつあった赤崎は'17年3月、ガンバ大阪に期限付き移籍を決断。だが、出場機会こそ得たものの、リーグ戦1ゴール。さらに昨年は川崎フロンターレに完全移籍したが、キャリアでワーストとなるリーグ1試合出場、0ゴールという屈辱の1年となった。

「ガンバではチャンスも与えてもらったのにも関わらず、完全に自分の力不足を痛感した。フロンターレでは厳しい競争でチャンスを掴みきれなかった。本当に悔しかった」

 失意の底にいた赤崎に声をかけたのは、他でもない風間監督だった。実は風間監督は赤崎がプロに入ってからも、毎年のように彼にオファーを出し続けていたのだった。

「鹿島やガンバの時はまだ風間さんのところに行く強い『覚悟』が持てなかった。やっぱり『風間さんじゃないと』と思われるのが嫌だった。他の選手が風間さんのところに行く覚悟とわけが違うと思っているので、余計に覚悟が持てずに断り続けていたんです。

 でも、昨年は試合にほとんど出ていないにも関わらず、声をかけ続けてくれた風間さんへの恩義を強く感じたんです。もう一度、風間さんのサッカーをやりたいし、フロンターレで出れなかった時間を、価値があるものにするためにも、今年が自分のプロサッカー選手としての勝負の時だと思った」

【次ページ】 赤崎が感じた風間サッカーの進化。

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