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<トルネードコラム>
トミー・ラソーダ「“アメリカの父”になろうと思った」
text by

出村義和Yoshikazu Demura
photograph byYukihito Taguchi
posted2015/05/15 06:00

1976年から実に20年にわたりドジャースを指揮した。監督時代の背番号「2」は永久欠番。
「ヒデーオ、ヒデーオ」
野茂英雄を呼ぶ大声が、クラブハウスに響き渡る。声の主はドジャースのトミー・ラソーダ監督だ。
「こうして監督室に呼び入れて試合前の軽食をともにする。トミーのルーティーンのようなものですね」
そう説明してくれたのは、今ではダイヤモンドバックスの球団社長にまで上り詰めた、当時広報アシスタントのデリック・ホール。'95年6月、ドジャー・スタジアムでのことだ。
あれから20年。ラソーダの肩書は球団会長特別アドバイザーに変わったが、87歳になった現在もドジャースの一員、いや顔として、あの頃と変わらぬエネルギーで球団主催のさまざまなイベントでアンバサダー的な役割を果たしている。
「ヒデオと契約を交わしたとき、私はアメリカの父親になろうと思った」と、ラソーダは振り返る。
日米野球などで過去に何度も来日し、日本野球のレベルを熟知していたラソーダは、野茂のメジャーでの活躍を確信していた。そしてその実力を発揮させるには、外国にいるという不安を取り除き、働きやすい環境を整えることが重要であると考えた。その手っ取り早い方法が「アメリカの父親」になることだった。
「一緒に時間を過ごしながら、必要なことや困ったことがないか常にチェックしていた。一番の心配はメディアの取材攻勢。特に入団直後はメディアのカーチェイスに何度も遭っていた。ひどいときは6台もの車に追い回されていたよ(笑)。私にはヒデオを守る必要があったんだ」
こちらは雑誌『Number』の掲載記事です。
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