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引退して4カ月の狩野舞子が振り返る、
人に支えられたバレーボール現役生活。

posted2018/09/12 11:00

 
引退して4カ月の狩野舞子が振り返る、人に支えられたバレーボール現役生活。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

text by

林田順子

林田順子Junko Hayashida

PROFILE

photograph by

Hideki Sugiyama

  バレーボール一家で育ち、15歳で全日本代表候補に選出。2012年のロンドン五輪では、全日本女子として28年ぶりに銅メダルを獲得した狩野舞子が、今年5月、コートを去った。若くして脚光を集めながらも、3度のケガに泣いた現役生活であった。引退から約4カ月、現役生活の思い出をひとつひとつ言葉を選びながら語ってくれた。

 現役生活を振り返ると、すごく人に恵まれたバレーボール人生だったと思います。色々な出会いがあって、チームに入ったり、ケガをしたときも本当にたくさんの人に支えてもらいました。バレーボール自体、チーム競技ですし、私ひとりだけでやりきったとは言えない現役生活だったと、改めて思います。

 小学生のときにはすでに身長が170cmを超えていましたし、中学生ぐらいまでは練習したことがどんどんできて、自分の能力だけでやっているような感じでした。もちろん練習は一生懸命やっていましたけど、悩まなくても色々な技術も身に付くし、スパイクも決まるし、できてしまう自分がいて。そうすると自然とボールも集まってきて、自分が決めなきゃいけないというエース意識は当時のほうが強かったですね。私が頑張らないと、このチームは負けると思ってやっていました。私の前にボールを繋いでくれる人がいてこその自分だということを深く考えていませんでした。この頃までは、うまくいかないって思ったことはほとんどありませんでした

 それが中学、高校の頃から、すごくケガが多くなって。一番最初の大きなケガは、確か中学生のときの疲労骨折。本当にまったく足を動かせなくて。原因は色々あると思うんです。ただ、一生懸命、全力でやっているなかでのケガなので「運動量とか成長具合とか、これだけ動いているんだから、やっぱり身体に負担もかかるよな」と、仕方ない、受け入れるしかないと思っている自分もいて。自分が出ないと負けてしまうと思っていたので、とにかく少しでも良くなったら、ひたすら一生懸命やるの繰り返し。お医者さんとかトレーナーさんにやるべきことを聞いて、やるだけでした。

姉がいなかったら、なんて考えられない。

 アキレス腱を断裂したときも同じです。バレーボールをやっていくなかで、やっぱりオリンピックに出たいという目標はずっと持っていました。それがケガによって出れなかったというのは、とても悔しかったですが、ケガをしたからやめるというのは自分のなかにはなくて。みんな頑張ってリハビリをして、できるようになっているのに、それを言い訳にして行けなかったとか、諦めてしまうというのは自分では絶対に言いたくなかった。オリンピックに出たい、代表で活躍したいという気持ちがあったので、リハビリも頑張れたし、復帰に向けて切り替えられたんだと思います。

 ただ、元々ネガティブですし、何で私がとか、何でこのタイミングで、とは思いました。でも意外と切り替えが早いんです。ケガをしたことよりも、むしろこれだけやっているのになかなかケガが良くならない、というときのほうがきつかったですね。

 現役生活の大きな支えになったのは、11歳上の二番目の姉です。自分にも、私にもすごく厳しくて、中学、高校ぐらいまでは本当に怖かったんです。でも久光製薬スプリングスに所属して、同じチームになってからは厳しさのなかにもやさしさが見えてきて、姉との接し方も変わってきました。

 バレーボールのことはもちろん、人間関係のことであったり、心配をかけたくなくて、親には言えないような悩みも姉なら相談できました。いつでもそばで支えてくれて、的確な言葉を返してくれて、導いてくれる。姉であり、コーチであり、人生の相談役。今もそうですが、本当に支えてもらいました。

 うちの家族は割とさばさばした関係なのですが、一度姉に相談をしたときに、「最終的には家族は味方だから」って、言ってもらったことがあって。それまではそういうことを言ってくれる人もいなかったので、「そうか、味方がいるんだ」って、すごく心打たれました。姉がいなかったら、なんて考えられない。それぐらい私にとっては大きな存在です。

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