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相次ぐ協会問題と'00年の千葉すず。
勇気ある行動が競技に透明性を。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAFLO
posted2018/09/08 11:00
2000年、選考を不服としてスポーツ仲裁裁判所に提訴に至ったが、代表に入ることはできず、そのまま引退した。
五輪落選と千葉すずの発言。
そこで、冒頭の話に戻る。
競泳に、千葉すずという選手がいた。日本と世界との差が大きい自由形を専門としながら、1992年バルセロナ五輪では200mで6位入賞を果たした。これは今もなお同種目での日本最高成績である。また1996年のアトランタ五輪にも出場し、1991年の世界選手権では400mで銅メダルを獲得している。
その一方で選手が水着を自由に選べるようにしたい、と日本水泳連盟と交渉するなど(当時は認められていなかった)、行動と意志を明確に語る選手でもあった。
彼女が大きな注目を集めたのは2000年のことだった。同年のシドニー五輪代表選考会の日本選手権200mで優勝し、五輪参加標準記録も突破したが代表に落選。その理由は不明瞭だった。大会期間中、千葉は、日本選手権は目標ではなくオリンピックが本番である、という旨の発言をした。
至極妥当とも思える発言だったが、これが連盟の怒りを買うことになり、それに引きずられるように、新聞各紙でも千葉は批判的に扱われた。そんな経緯も落選理由として取り沙汰された。そして千葉はスポーツ関連の問題を取り扱う国際機関である「スポーツ仲裁裁判所(CAS)」に提訴するにいたったのだ。
選考方法の透明化などが進んだ。
CASは千葉の代表入りに関しては認めなかったものの、連盟に選考方法の透明化と費用の一部負担を要求。その後、競泳の選考は順位とタイムにより明確に行なわれることとなった。恣意的に選ぶことは不可能となり、それは競泳界の風通しをよくすることにもつながった。また、他の競技団体でも代表選考のあり方が論じられる機会ともなった。
千葉の功績は今日にもつながっている。
ただ、ここまで書いてきたのは、選手が発言することによって、どのようなリスクを負うかをあらためて認識してもらいたかったからでもある。先に少し触れたが、現役時代、千葉は自身のみならず選手全体を考えての行動から連盟とぶつかる場面もしばしばあり、不興を買っている面があった。