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江夏、野茂が高校野球に残した伝説。
甲子園に出ていない怪物投手たち。
posted2018/08/16 17:00
text by
森田尚忠Hisanori Morita
photograph by
Kyodo News
1966年。第48回全国高校野球選手権・大阪大会準々決勝、明星高校の4番・山東孝好は試合前に見せた大阪学院・江夏豊の柔和な表情を、今も覚えている。
「お手柔らかに頼むぞ」
第1試合が長引いたため、両校のナインは藤井寺球場の場内で待機を命じられていた。江夏が山東に声をかけたのは、そんな時だった。
「中学の同級生が3人、大阪学院にいたので江夏のことは知っていました。礼儀正しく、どこにでもいる高校生という印象でした」
だが、ひとたびプレーボールの声を聞くと、左腕の印象は一変する。
「とにかく速かった。低めのボールかな? という球もストライクになる。真ん中でも力で押してきた」
ストレートのみでもバントができない。
後に明大、東京ガスで活躍した強打者も3打数無安打1三振。この試合前まで4試合36イニング連続無失点、62奪三振の力はダテではなかった。
球種はほぼストレートのみ。カーブはまだ曲がらず、明星打線は速球1本に狙い球を絞った。制球が定まらないため6四球を選んだが、誤算はあまりの球速に機動力を封じられたことだった。2番・方喜三郎はあれほど得意だった犠打を決めることができなかった。
「キレがあるというより、ズドンと重い。あの試合だけは、バントがうまくいかなかった」
後に東洋大で2年生からレギュラーをつかみ、2番打者として活躍した小技の達人が、それを力で封じられたのだ。
1961年夏に全国制覇を果たした怪童の浪商・尾崎行雄が出現したことにより、大阪の強豪私学は今で言うスモールベースボールを対抗手段とした。バント、ヒットエンドラン、盗塁を駆使して本格派を切り崩す。新興のPL学園、明星などがその走りだった。