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江夏、野茂が高校野球に残した伝説。
甲子園に出ていない怪物投手たち。 

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森田尚忠

森田尚忠Hisanori Morita

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photograph byKyodo News

posted2018/08/16 17:00

江夏、野茂が高校野球に残した伝説。甲子園に出ていない怪物投手たち。<Number Web> photograph by Kyodo News

高校で本格的に野球を始めた江夏は、甲子園にこそ出場できなかったが直球のみで大阪大会6試合を投げ抜き、3失点の快投ぶりにプロも注目した。

6試合81奪三振は大阪大会の記録。

 明星は元プロ野球選手で野球評論家だった真田重蔵氏が監督に就任しており、さらに野球を進化させていた。1、2番には出塁、小技を求め、中軸には長打を期待できる選手を置いた。1番から9番まで明確な役割分担を敷き1963年夏には甲子園で優勝。江夏と対戦した1966年のチームは真田こそ退いていたが、その伝統を受け継いでいた。

 江夏を警戒していたとはいえ、終わってみれば、後に近鉄へ進んだ平野光泰が放ったランニング本塁打による1点のみに終わった。ある打者は豪速球の威力のあまりバントしたはずが二塁手の手前にぽとりと落ちる凡打になった。

 鉛のような重さにバットは何本もへし折られた。日没の悲運も重なり1-2で7回コールド負け。本格派左腕の前に、2年ぶりの甲子園出場はならなかった。

 明星を下した江夏は続く準決勝・桜塚戦に0-1で敗れ、甲子園の土を踏むことはかなわなかった。明星戦の10、桜塚戦の9をあわせ、6試合51イニングで実に81奪三振。大阪大会の大会記録として52年後の今も破られてはいない。

江夏から20年後、野茂の登場。

 江夏の出現から20年後、大阪に再び怪物の胎動がある。

 1986年7月30日、第68回全国高校野球選手権大阪大会5回戦。興国の4番・中西亮介はマウンドの野茂英雄に、これまでとは違う変化を感じ取った。秋の大阪大会4回戦、そして春の練習試合を含めると、成城工・野茂と対峙するのは1年間で3度目だった。

「ポーカーフェイスなんですけど、夏は闘志をむき出しと言いますか。少なくとも秋に初めて試合をした時は、ふわっとした、大人しそうな感じでした」

 中西にとっての野茂は相性抜群の投手だった。新チーム結成直後の秋は3打数3安打。春になっても2打数2安打と、一度もアウトになったことがなかった。後に社会人・大阪ガスでも4番を任された右のスラッガーは、ことごとく野茂の剛球をとらえていた。 

「自分の時は120%の力を出してきた。夏は力負けです」

【次ページ】 完全試合を含めて非凡な才能が。

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