Sports Graphic Number WebBACK NUMBER
<歩みをとめない者たち>
宮本恒靖の“今を生きる”原動力。
posted2018/06/14 11:00
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
Shiro Miyake
宮本恒靖は、バーンアウトと表現する。
2006年、ドイツワールドカップ。ベスト16まで進んだ日韓大会以上の結果を期待されたものの、惨敗に終わった。キャプテンとしてすべてを注ぎ込んできただけに、その代償は思った以上に大きかった。
もう12年も前の出来事になる。宮本は古巣ガンバ大阪に戻って指導者となり、U-23監督とトップチームのコーチを務めている。ビターな記憶は、今なお新鮮なままである。
「ショックはありましたね。いい結果をもたらすことができず、モヤモヤしたままでガンバ大阪の練習に復帰して、そこでヒデ(中田英寿)の引退表明もありました。自分に置き換えてみても、キャリアの終わりが近づいていると感じさせられました。ドイツから帰国してJリーグの試合がめぐってくるなかで、集中力を保とうとはしていたつもりです。しかし気持ちとパフォーマンスにズレが生じていて、プレー自体あまり良くなかったかなって思います」
29歳での海外移籍を決断した理由。
自分はどう進んでいけばいいのか。
立ち止まりかけた。だが、行動の人は目線を次に移そうとする。それが29歳での海外移籍というチャレンジだった。
宮本が当時の決断を振り返る。
「次のターゲットを定めないと、新たなモチベーションが生まれないなと感じました。もう海外に行くしかない、と」
2006年シーズン限りで、ユース時代を含めて15年過ごしたガンバ大阪に別れを告げ、オーストリアの強豪レッドブル・ザルツブルクへと渡った。
29歳と言えば、サッカーではベテランに入る範疇。かつ日本人ディフェンダーの海外挑戦は、まだ珍しい時代だった。
語学は堪能だとはいえ、海外のやり方を一から吸収しなければならない。
彼は合流する前からチームメイトの名前と顔を覚え、積極的に溶け込もうとした。イタリア代表やACミラン、ユベントス、インテルなどビッグクラブで指揮を執ってきた名将ジョバンニ・トラパットーニ監督とは何かあればコミュニケーションを取るようにした。