“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
城、松井、遠藤らが巣立った鹿実。
愛弟子が継承する「松澤イズム」。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2017/09/03 09:00
桜島が見えるトレーニング場で指導に励む森下監督。松澤氏が築き上げた名門・鹿実の土台は確かに引き継がれている。
岡田監督率いる横浜FMから“内定”をもらったが。
松澤の予言を現実にした森下は、福岡教育大学に進学。指導者を志すようになった。
そんな彼は大学4年時に大きな“内定”をもらうことになった。当時、岡田武史監督が率いる横浜F・マリノスからアシスタントコーチ就任の要請が届いたのだ。本来は大学卒業後に着任する予定だったが、岡田監督の要望から、大学4年の12月からコーチングスタッフ入りを果たした。
だが2006年2月、指導者としてのキャリアをスタートさせていた彼の下に、1本の電話が届いた。
松澤からだった。
「由利繁弘が今年度で辞めることになった。お前に帰って来て欲しい。鹿実を手伝ってくれ」
松沢は2000年に定年を迎え、総監督という立場に就任。由利が監督として指揮を執っていた。だが、由利の辞任申し出により、松澤の監督復帰が決定。そこでコーチとして森下を指名した。
当時について、森下はこのように回想する。
「今でもはっきり覚えているのが岡田監督に呼び出されて、“お前、鹿児島に帰るらしいな。マリノスというプロの厳しい環境で指導者としてやっていきたいのか、母校に戻って将来監督になるのか。どうしたいんだ?”と聞かれ、僕は“松澤先生に呼ばれた以上、行きます”と答えたんです。そうしたら“松澤先生じゃないだろ! お前の人生だろ!!”とはっきりと言われた。それは岡田さんの自分への愛情と優しさ以外何物でもなかった。それは分かっていたのですが、僕と先生の関係は師弟関係を超えていた。先生が僕を必要としているのであったら、すべてのものを投げ出してでも帰らないといけないと強く思ったんです」
コーチとして勉強した、指導者・松澤の凄み。
森下は母校にコーチとして帰って来た。松澤の下で7年間コーチを務め、名将のノウハウを学んだ。
「僕が選手の時、松澤先生はカリスマだった。話すときは緊張するし、遠い存在だったけど、コーチになって一気に近くなった。そうなったことでより見えることが増えて、僕の指導者としての力不足を痛感したし、勉強になりました。一番感じたのは、松澤先生は本当に細かいところまで見ているなということ。やっぱり日本一を獲る人たちは、おおざっぱに見えて、実は細かい準備をしている。試合に向けた選手への気配りや目配り、言葉掛け。朝から夜まで、しっかりと戦略、過ごし方を考えて行動している。
あと、とにかく妥協をしない。普通の人なら“ここはいいや”と思ってしまうところでも、絶対に徹底してやる。それがいざ試合になると、最後の10分や、苦しいときに選手たちの執念や、勝負に現れるんです。それを僕は22歳から目の当たりにしているし、徹底して“勝負とは何か”を間近で教わった」