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イチローの伝説のバット、誕生秘話。
尋常ならざるこだわりの果てに……。
posted2017/04/17 08:00
text by
Number編集部Sports Graphic Number
photograph by
Yukihito Taguchi
イチローがメジャーで3000回も響かせてきた快音は、
バット職人の妥協なき姿勢が生んだものだった。
名古屋市内から北西へ車を走らせること、約40分。木曽川、長良川、揖斐川と3つの大きな川を越えると、養老山のふもとに広がる田園風景が見えてくる。その只中にそびえ立つ建物こそ、メジャーリーグで3000本ものヒットを放ったバットを製造している工場だ。
ピート・ローズ、落合博満、そしてイチロー……工場に隣接する応接室には、往年のプロ野球選手から現役のメジャーリーガーまで錚々たるスラッガーのバットが並んでいた。奥には人工芝が張られた小部屋があり、シーズンオフになると選手たちが試し打ちをしながら来季に使うバットの仕様を思案する。
迎えてくれたのは、この工場でイチローのバット製造を担当する名和民夫さん(49)。イチローの偉業達成を受けて、その心境を尋ねた。
ルーキーの頃から基本的な形状が変わらないバット。
「相当な覚悟をもって仕事にあたってください」
イチローに面と向かってそう言われたとき、名和さんは身の引き締まる思いに駆られたという。2008年1月、新たなバット製造の担当者としてイチローに挨拶をしたときのことだ。
「イチロー選手はルーキーイヤーの1992年にミズノの篠塚和典さん(元巨人)モデルのバットを使うようになってから、これまで基本的な形状はまったく変えていないんです。バットにも『変わらないこと』を求めているように感じていますし、大切に作ってほしいという思いを私への『相当な覚悟』という言葉に込められたのかなと思っています」
高校球児だった名和さんが、岐阜県養老町のスポーツ用品製造会社「ミズノテクニクス」に入社したのは今から約30年前。ゴルフクラブの製造や物流の部署を経て、'93年にバット製造課へ異動となる。イチロー担当の前任者でもある名工・久保田五十一さんの下、バット職人としての修行の日々が始まった。