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アメリカズカップは興行的に大成功。
大歓声の中心には、早福和彦がいた。 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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photograph byGetty Images

posted2016/11/24 11:00

アメリカズカップは興行的に大成功。大歓声の中心には、早福和彦がいた。<Number Web> photograph by Getty Images

早福和彦(手前)は50歳。日本ヨット界のレジェンドとも言うべき存在で、チームジャパンでも精神的な支柱だ。

「彼には続ける才能があったということ」

 ニッポンチャレンジは2000年、3度目の挑戦を最後に、資金繰りがうまくいかなくなり挫折した。その後、クルーたちは散り散りになった。ヨットを辞めた者も多い。中には日本のアメリカズカップ再挑戦を水面下で画策している人たちも少なからずいたが、実現には至らなかった。そんな中、職人肌の早福はスペインに移住し、愚直にヨットに乗り続けていた。

「その頃は、誰もヨットで飯を食っていけるなんて思っていませんでしたからね。自分は相当、変わり者だったということですよ」

 早福は年齢的な限界もあり、近いうちに帰国し、まったく別の仕事をすることも考え始めていたという。そんな矢先、ソフトバンクの参戦が突然決まり、ニッポンチャレンジのクルーの中で唯一、再び檜舞台に立つチャンスを与えられたのだ。

 前出の元クルーは言う。

「僕は彼の3つ上なんですけど、ジェラシーの塊ですよ(笑)。彼より才能のあるセーラーは他にもいました。でも、彼には続ける才能があったということだと思います。ゴールするとき、浜から日本人の大歓声が聞こえるなんて、ありえないことですから。嬉しかったと思いますよ」

 サッカー界で同じようなポジションにいるカズについて語るときも、似たような話をよく見聞きする。そんな早福に、ヨットの神様が微笑んだのかもしれない。

早福「しみったれたことを言いたくはないですが」

 今大会は、半分は、早福のためにあった大会だと言ってもいい。大会中、彼は常にファンにもみくちゃにされていた。

「感動しっぱなしの2日間でした。しみったれたことを言いたくはないですが、長いこと続けていてよかったなー、って本当に思いましたね」

 前回、ニッポンチャレンジの挑戦は3度で終わった。今後、チーム・ジャパンが存続し、また、日本開催が定着するためには無論、資金が第一である。しかし、それだけでは決して埋まらない。

 最後のワンピース。それは、そうした動きとはまったく別のところで、「第2の早福和彦」を育てることである。

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