ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
愛媛生まれの松山英樹が「仙台出身」?
会場アナウンスと、風化しない震災。
posted2016/03/11 10:50
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph by
AFLO
「“もう”ですよね……。もう、5年です」
忘れえぬ2011年3月11日。松山英樹はあの瞬間、遠く南半球にいた。
まだアマチュアだった当時。初のマスターズ出場を1カ月後に控え、東北福祉大ゴルフ部の一員として恒例のオーストラリア・ゴールドコーストでの合宿に参加していたときのことだった。
コースで日常の汗を流し、宿舎に戻った夕方。東日本大震災の一報を受けた。
部員たちはみな、テレビの映像に釘付けになった。
「え? 何の映画? これが日本……仙台? ウソでしょ、絶対ウソだ。冗談キツイよ……」
大学の拠点、当時住んでいた学生寮は仙台にあった。画面に映し出される衝撃的な光景を現実として噛み砕けない。
あの揺れを感じなかったこと、どこか当事者意識を欠いていることに対する自責の念。悲劇の瞬間の様子を、電波を通してしか受け取らなかった人々が抱えた無力感や疎外感……。松山もそんな思いに包まれたひとりだった。
仙台の寮から、マスターズのローアマへ。
しかし松山はその後、紛れもない当事者のひとりになった。
日本に帰った3月中旬、仙台に戻ることを希望した部員は東京から陸路で、変貌した愛着ある地へ向かった。東北道を走る救援物資が積まれたバスに同乗した。宮城県内に入ってからも寮へは辿り着けず、近隣の避難所に泊まった。
「帰った日も小さな地震が何度もあって。ずっと揺れている感じだった。目の前のコンビニに行ったら、ものが何もないんですよ。当たり前ですよね」
昼も夜もカップラーメンで腹を満たし、特別支援の布団に入って夜を越した。
住まいの寮に戻ると、部屋の扉が堅く閉ざされていた。内部で散乱した荷物が、ドアの“支え”になっていたのだ。「壊れても仕方がない」。力ずくでこじ開けた勢いで、中に置いてあったゴルフクラブは曲がってしまった。
松山がゴルフを再開したのはその数日後。マスターズに向けて米国本土に渡ってからのことだった。オーガスタナショナルゴルフクラブでは一躍「地震、津波の被災地から来たアマチュア」として知られるようになった。アジア人初のローアマチュア賞という快挙を遂げるのは、その1週間後だった。