カンポをめぐる狂想曲BACK NUMBER
From:ロシア「時間を返せ!」
text by
杉山茂樹Shigeki Sugiyama
photograph byShigeki Sugiyama
posted2008/05/27 00:00
CLファイナルの開催地、モスクワへと飛んだ。
空港に降り立った瞬間、旧社会主義の匂いがプンプンする。
しかし、見習うべき点もあることにはあったのだ。
モスクワ・シェレメチェボ国際空港におよそ30分、定刻より遅れて到着。アエロフロート機の機内アナウンスは「お急ぎのところ、到着が遅れたことをお詫びします」と、マニュアル通り(?)恐縮してみせたが、空の旅に遅れはつきものだ。乗り換え便の出発時刻が迫っているならいざ知らず、今回の旅はモスクワが終点。30分ならノープロブレムだ。
ところが、僕が生来備えるそんな大らかさは、入国審査場に到着するや、たちどころに消えてしまった。
そこには人の海が広がっていた。人が列を作らず、入国審査のゲートに無秩序に殺到していたのだ。毎月11日を整列乗車の日とし、五輪に向けて国際常識を身につけようと頑張っている北京の方が、まだマシに見えた。
そもそもホールが狭すぎるのだ。列など作れない施設の構造に一番の問題がある。ロシアといえば大国であるし、モスクワといえば欧州を代表する大都市である。にもかかわらず入国審査場がこのザマとは。僕の知る限り、これは世界ワースト。いかなるマイナー国でも、こんなことはない。
シェレメチェボ空港には、これまでにも何度か訪れたことがあった。そのひどさについては熟知していたつもりだが、人の海に遭遇した記憶はなかった。到着便が殺到する中で入国した経験がなかったからだと思う。
注意点として頭にすり込まれていたのは、白タクに引っかからないこと。それさえ注意すれば大丈夫と思っていただけに、人の海は計算外。大誤算だった。結局、入国審査に費やした時間は1時間半。疲労困憊して空港のホールに出た。
さて、次はタクシーである。僕は迷わず公共のタクシー案内所に向かった。この空港に日本のようなタクシー乗り場は存在しない。案内所の係員に行き先を伝えて所定の料金を払うと、ドライバーを紹介され、駐車場に止めてある車で目的地へ向かう仕組みである。空港と市内中心部を直結する公共の交通機関はない。誰かに迎えにでも来てもらわない限り、タクシーを利用するしか手はないのだ。ひどい空港だと言いたくなる所以である。
目的地を告げると、係員の女性は2000ルーブルだと答えた。ユーロ払いなら60ユーロだと、僕を乗せようと待機している人相の悪そうなドライバーが横から口を挟んだ。空港から目指すホテルまでの距離は約30km。日本円にして約1万円は、日本のタクシー料金を考えるとギリギリセーフだが、公共の交通機関が他に全くない現実を考えると高すぎる。僕は「えっ」と驚いたふりをして、係員の女性を牽制した。「ホントなの?」と聞き返すと、案の定、彼女の視線は宙をさまようではないか。怪しい。僕は「ノーサンキュー」と言ってその場を離れ、界隈をうろついている白タクの呼び込みに値段を聞いて回った。
「200ユーロ」「230ユーロ」「220ユーロ」──。わずか3人訊ねただけで僕は観念した。案内所の窓口にすごすごと引き返し、60ユーロを黙って支払い、公共タクシーでホテルへ向かった。
もっとも、支払い先は窓口の係員女性ではなく、ドライバーとおぼしき男だった。窓口の女性は、60ユーロをそのまま男に手渡したのである。さらに驚いたのは、お金を握った男がドライバーではなかったことだ。男の役は車を止めてある駐車場まで案内するだけ。ドライバーはあらかじめ車内に待機していた。いったいドライバーの手元には、60ユーロのうち何パーセントが入るのか。その取り分を思うと、案内役の男がとても胡散臭く感じられた。ただ、車は素晴らしく、ベンツのSクラス。新車ならではの匂いが、車内にはプンプンと漂っている。居心地が良いのか悪いのか、不思議な気分になる。ホテルまでのドライブは決して快適ではなかった。所要時間は1時間半。大渋滞が待ちかまえていたのだ。
成田空港からシェレメチェボ空港まで約10時間。空港に着いてからホテルまで約4時間。この理不尽さには頭を抱えたくなるが、もっとも成田へ向かう場合も、出発時間の4時間前には東京の自宅を出発していなければならないので、モスクワを一方的に悪者扱いするわけにもいかないと勝手に納得する。「新東京国際空港」に到着した外国人だって、それが東京から60kmも離れた場所にある事実に愕然としているに違いないのだ。過去に何百回と成田を利用している僕も、その往復に何千時間も費やしていることになる。時間を返せ!
と叫びたくなる。
日本人としてモスクワを馬鹿にできない理由は他にもある。むしろ素晴らしい!
と、声を大にして讃えたくなるところがある。美人に遭遇する率が、他国とは比較にならないほど高いことだ。地下鉄に乗ると、気がつけば車内をキョロキョロしている自分がいた。イングランドからやってきたマンUサポーター、チェルシーサポーターも同様。美人を見つけては値踏みするような目線を送り、仲間同士でニヤニヤするイングランド野郎に、僕は不覚にも仲間意識を覚えてしまうのだった。
一男性としてではなくサッカージャーナリストとして、もう一点讃えておかなければいけないのは、試合後の話だ。
チャンピオンズリーグ決勝が始まった時刻は現地時間の午後10時45分。中欧州時間の午後8時45分にキックオフされるチャンピオンズリーグの慣例に従った結果だが、したがって延長、PK戦に及んだ試合が終了した時刻は午前2時だった。8万の大観衆はそれでも、可及的速やかに帰路に就くことができた。モスクワの地下鉄が夜通し運行したからである。僕も朝の4時には無事にホテルに着くことができたのだが、日本でこれが実現できるだろうか。
ちなみに、オーストリアとスイスで共催されるユーロも、大会期間中特別ダイヤを編成し、何千本もの列車を増発する。サッカーの試合のためにそこまで動ける国は、やっぱり羨ましい。スポーツの占める地位の高さを感じずにはいられない。もう一度オリンピックやW杯を開催したいと言うのなら、そのあたりまで含めたホスピタリティが必要になる。モスクワで行われたCLファイナルにも、見習うべき点あり。文句も山ほどあるが、ここではあえてそう言っておくことにしたい。