スポーツの正しい見方BACK NUMBER
自主性と創造性を見せて欲しい。
text by
海老沢泰久Yasuhisa Ebisawa
photograph byNaoya Sanuki
posted2006/05/16 00:00
いよいよドイツワールドカップがはじまる。
この4年間、さまざまなことがあったが、もっとも論議を呼んだのはジーコの指導方針だった。トルシエは「フラット3」という守備のシステムをつくり、選手にそれを厳格に守らせるサッカーをしたが、システムに選手を合わせていたのではそれ以上のサッカーはできないといって、ピッチの中では選手の自主性に任せるというやり方をとった。選手の創造性を引き出すやり方といってもいい。それが、ジーコに戦術がない、無策だという批判を受けたのである。
国内組と海外組の融合という日本サッカーが初めて経験する困難を経てアジア予選を突破したあとでも、アジア予選程度ならどんなサッカーをやっても勝てるといって、批判する人たちは批判することをやめなかった。いまもそういう人たちは大勢いるだろう。
その批判は分からないことではない。日本人は、個人行動は苦手で、組織やシステムに従って動くことのほうが得意だとはよくいわれることだからだ。なぜそのすぐれた特性を生かさないのかということなのだろう。あるいは、日本人程度の創造性では、ブラジルやヨーロッパの選手の変幻自在の創造性にはとても太刀打ちできないという悲観論も秘められているのかもしれない。
また、システム主義には実績もある。トルシエの「フラット3」は、選手をロボットのように扱うという根強い批判があったにもかかわらず、1次リーグを突破して日本をベスト16に導いた。勝つためにはかなり有効であることはまちがいないのである。
しかし、いずれにせよ、それがまもなく本番で試されるのである。
むろん、試されるのはジーコばかりではない。ジーコはこの4年間、どんなにその方針を批判されようと、日本代表の選手たちには自主性も創造性もあると信じ、こまかいことをいわずにそれをピッチの中で発揮することだけを求めてきた。彼らに本当にそれがあるかどうかも試されるのである。これほど厳しいテストはない。教えられたシステムに従い、監督の指示どおりに動くのであれば、その責任をシステムと監督に押しつけることも可能だが、独立した個人としての自主性に任されたのである。不様な試合をすれば、そういう選手たちの自主性に任せたジーコの責任が問われるのはもちろんだが、すくなくとも選手たちは誰の責任にもできない。
また、このテストの結果は今後の日本のサッカーの進むべき方向にも影響する。結果しだいで、システムと選手の自主性のどちらを重視するのがいいのかという議論が必ず起きるはずだからだ。
「本大会で世界を驚かせる結果を残そう」
アジア予選を突破したとき、ジーコは高らかにそう宣言したが、すべてはそれを実現できるかどうかにかかっている。
怖れることは何もない。1次予選の組み合わせが決まった直後にイギリスのブックメーカーが発表した優勝オッズは、ブラジル3.75倍、クロアチア51倍、オーストラリア126倍、日本151倍だった。失うものは何もないのである。