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『ふたつの東京五輪』 第2回 「焼け跡世代の興奮」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2009/06/04 06:00
[ 第1回はこちら ]
時代は高度成長期真っただ中。オリンピック景気に沸く東京の街で、ひとりの若きカメラマンが奮闘する。
めまぐるしく、いい時代だった。
1964年の東京オリンピックを迎えようとする当時を思い返すと、そんな言葉が浮かんできます。
東京開催が決まったのは、その5年前、1959年のことでした。私がスポーツ写真を始めた頃です。5月26日、ミュンヘンで行なわれていた国際オリンピック委員会(IOC)の総会で、1964年、第18回オリンピックの開催地に東京が決まったのです。
当時のIOC会長は、アベリー・ブランデージ氏です。「ミスター・アマチュア」と呼ばれるほど、オリンピックに商業主義が入り込むことに厳しかった人です。一方で、日本の美術品を愛好する親日家でもありました。東京開催に決まったのは、彼の力も大きかったと思います。
国際社会へ復帰する日本の象徴としての五輪。
開催決定は、大きなニュースとして日本に飛び込んできました。実は東京は、1940年、第12回大会の開催地として予定されていました。しかし、第二次世界大戦を前に深刻化する情勢の中、開催を返上し幻で終わっていたのです。
今ではすっかり様変わりした新宿駅付近。西口の淀橋浄水場は五輪開催翌年に閉鎖され、超高層ビルを中心とした副都心計画が進むこととなった
それを記憶するスポーツ関係者の無念の思いは、東京で開催したいという悲願として受け継がれていました。そして日本は、高度成長期にさしかかり、右肩上がりに進んでいく時期でもありました。戦後の復興を経て、国際社会に復帰できるチャンスとして、オリンピックがやってくるのです。身を奮い立たせるような興奮に誰もが包まれたのも無理のないことでしょう。
開催を目前にした年、地方に行くと、例えば仙台の七夕まつりでは、七夕飾りと一緒に東京オリンピックのマークが飾られていました。徳島の阿波おどりでもまた、マークを掲げて踊る人の姿がありました。
全国民が五輪に賛成しているかのような熱気だった。
むろん東京もそうです。今では東京国際フォーラムになっている場所に都庁があったのですが、世界各国の国旗とオリンピックのロゴマークが飾られ、上野松坂屋、上野公園、新宿伊勢丹、いたるところにオリンピックのマークを見ることができました。
まだオリンピックのロゴマークの使用条件も緩やかでしたから、公式ポスター以外でもロゴマークが使用されたポスターや商品があふれていました。それは商売としての便乗ではなく、オリンピックを記念したい、そんな気持ちからだったと思います。
日本中が、「誰もオリンピックに反対する人はいないんだ」と思えるくらいの熱気にあふれていたのです。