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『ふたつの東京五輪』 第2回 「焼け跡世代の興奮」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2009/06/04 06:00
東京五輪で街が変わり、料理までが変わった。
初めて迎える大きな国際イベントですから、準備する方々の苦労は大変なものでした。
後の帝国ホテル総料理長・村上信夫氏が陣頭指揮をとっていた五輪選手村食堂。その代表的なメニュー
例えば、選手村で提供する食事もその一つでした。当時の日本では、本格的な洋食メニューなどどこを探してもありませんでした。肉料理にしても魚料理にしても、パスタにしても、味つけが分からないわけです。
でも、日本にやってくる選手や関係者を精いっぱいもてなしたいと必死です。後に帝国ホテルの料理長を務める村上信夫氏が300人ほどのシェフの指揮をとりましたが、在日大使館を訪ねて歩くなど、苦心されたそうです。
ところが、オリンピック前年に行なわれたプレ・オリンピックで来日した選手たちは用意した料理を食べなかったのです。味付けが違ったのですね。大会へ向けて、さらに試行錯誤が進みました。そういえば大会前の試食会には、のちに首相となる佐藤栄作さんも訪れていましたね。当時はオリンピック担当大臣でした。
言葉が通じないからこそのピクトグラムの多用は、世界の先駆け。
そうそう、東京オリンピックでたくさん採用され、その後世界に広まったものがあります。
「ピクトグラム」という言葉をご存じですか。
街なかのトイレの場所や非常口などを示すのに、絵を簡略化したような記号が用いられていますよね。このような、何らかの情報を伝える絵記号のことをピクトグラフといいます。今では世界中で使用されていますが、今のように多用されるようになったのは、実は東京オリンピックのときからなのです。日本人は外国語でのコミュニケーションが難しいことから、来日する選手や関係者、観客の方々への便宜のためにたくさん生み出されたんですね。
これ一つとってみても、東京オリンピックにかける人々の思いが表れているのではないでしょうか。
首都高速は、最初の京橋-芝浦間の開通(1962年)から東京五輪開幕までのわずか2年間ほどで、実に42km超を完成させていた
オリンピックへ向けての街づくりも始まっていました。今は広大な緑の広がる代々木公園は、第二次世界大戦後、アメリカ軍に接収され、彼らの宿舎となっていました。たしか「ワシントンハイツ」という名前でした。間隔を置いて建てられた家々と幅広い道路は、日本とは思えない、まさにアメリカの郊外を思わせる風景でしたが、オリンピック開催にあわせ返還され、選手村として使用することになりました。
その隣では、体育館の建設が始まりました。代々木第一・第二体育館です。設計はすでに広く知られていた建築家の丹下健三氏でした。吊り橋の技術を用い、屋根を吊り下げる構造は非常に珍しいものでした。
首都高速道路の建設も進み、1962年の京橋-芝浦間を皮切りに次々に開通していきました。東海道新幹線、羽田モノレールの工事も行なわれていましたが、開通したのはオリンピック開幕直前のことです。
1本でも多くフィルムを……焼け跡の安食堂で飯を食う。
競技施設の建設、交通網の整備、さらにはホテルなども次々にオープンし、街の姿がめまぐるしく変貌を遂げていく。そのもとにある、国際イベント成功にかける人々の思い。誰もが一つのことに夢中になれることのできた、熱いときだったように思います。
そして私もまた、自国開催のオリンピックへ臨もうとする選手たちの姿を、日々追い続けていました。1本でも多くフィルムを購入するために、新宿の一角の焼け跡に建っていた食堂で安く食事を済ませたのを覚えています。
東京オリンピックは、いよいよ開幕の日を迎えようとしていました。
岸本 健きしもと けん
1938年北海道生まれ。'57年からカメラマンとしての活動を始める。'65年株式会社フォート・キシモト設立。東京五輪から北京五輪まで全23大会を取材し、世界最大の五輪写真ライブラリを蔵する。サッカーW杯でも'70年メキシコ大会から'06年ドイツ大会まで10大会連続取材。国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟などの公式記録写真も担当。
【フォート・キシモト公式サイト】 http://www.kishimoto.com/