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世界基準への途上。反町康治 

text by

浅田真樹

浅田真樹Masaki Asada

PROFILE

photograph byToshiya Kondo

posted2008/08/07 18:46

世界基準への途上。反町康治<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

 チーム立ち上げ当初から、ずっと強豪とのマッチメイクを要望してきた反町康治にとって、それは待ちに待った試合だった。

 今年5月のトゥーロン国際トーナメント準決勝。日本と対戦が決まったイタリアは、あと1、2人の主力を加えれば、その足で北京へ向かえるほどのメンバーでこの大会に臨んでいた。

 反町はトゥーロンに入ってから、それまでの3試合はコンディションなどを見ながら、バランスよく選手を使ってきた。だが、このイタリア戦だけは、現時点でのベストに近いメンバーを送り出そうと考えた。

 これまでやってきたことがどこまで通じるのか。反町はそれが楽しみだった。

 例えば、リアクションのスピード。相手が前線にボールを入れてきたとき、すぐカバーリングに入ったり、挟みに行ったりする、そうした反応の速さでは、日本を上回るチームを今までに見たことがなかった。

 日本もやれる。そう思っていた。

 ところが、である。

 「オレら、あぐらかいてたな、っていう部分があったよね。あのときは、後頭部をガーンと殴られたような感じだった」

 実際に対戦してみると、イタリアはこれまでの相手とはレベルが違った。自信を持っていたリアクションのスピードにしても、日本より明らかに速かった。

 このレベルを基準にしなければ、とても北京では戦えない。

 そう考えた反町は、すぐに自分たちとイタリアとでは何が違ったのかを箇条書きにして、すべてを選手たちに示した。このころから反町の口からは、「世界基準」という言葉が頻繁に聞かれるようになった。

 当然、トゥーロンで世界基準を突きつけられたことは、本番へ向けての選手選考にも大きな影響を及ぼした。

 「もちろんアジア最終予選というのは、強い相手が多かったけれど、トゥーロンでは、やっぱり世界は全然違うってことを認識させられた。だから、その相手に勝つために、世界基準に届くために、自分たちも脱皮していかなきゃいけなかった」

 昨年11月、北京行きが決まったときから、選手選考については一から見直すつもりでいた。だが、自分を胴上げしてくれた選手に、情が移っていないはずがない。それは口で言うほど簡単な作業ではなかった。

 功労者。

 ともに予選の修羅場をくぐり抜けてきた選手たちのことを、反町はそう表現する。

 また、功労者は恐らく、こう言い換えることもできる。

 計算できる選手。

 落とすことのできない試合の連続のなかで、勝ち点を死守してきた彼らなら、プレッシャーのかかる本番でも持てる力を発揮できる。反町はそのことを知っている。彼らは、何もせずに功労者となりえたわけではない。

 それでも、いつまでも過去に固執していれば、新しいものは作り出せない。本大会と予選は別物。自分にそう言い聞かせるようにして、反町は選手選考を進めた。しかし、肝心の国際試合の数は少なく、本当の意味で新しい選手を見極める機会は限られていた。

 Jリーグと国際試合は別物だと考えなければならない。だから、反町は高いレベルでの試合を望んできた。2月のアメリカ遠征では4試合を行なったが、真の国際レベルで通用する選手をあぶり出してくれるような相手はいなかった。

 それだけに、トゥーロンは選手を見極めるためには絶好の、そして本番前最後の機会となった。しかも、グループリーグを突破し、決勝トーナメントに進出したことで、ほぼ1日おきの日程で5試合を戦うことができた。反町は、「トゥーロンがなければ、ここまでメンバーは入れ替わらなかったかもしれない」とさえ言う。

 「最終予選に出場していない選手であっても、最終的に“計算できる選手”として選べたのは、あの大会があったから」

 結果、北京五輪の登録メンバー18名のうち、アジア最終予選にまったく出場していない選手は8名にのぼった。フィールドプレーヤーに限れば、実に半数を占める。チーム内の勢力図は、この8カ月ほどの間に大きく書き替えられることになった。

 トゥーロン国際トーナメント出場をきっかけに、北京への様々な準備は加速度的に動き出した。オーバーエイジをどう活用するかについて、具体的な話が上がるようになったのも、トゥーロン直後のことである。

 反町にしても、一昨年から多くの試合をこなすなかで、この世代にはどのポジションに、どんなタイプの人材が不足しているのかは分かっていた。だが、あくまで五輪代表のベースは23歳以下の選手たち。この年代の選手の成長は、良くも悪くも予測がつかない。

 「先にオーバーエイジの選手を決め、それを柱にチームの構成を考えるのは、危険なことに思えたよね」

 メンバーを固定することなく競争させ、この世代の選手の成長を促すことを最優先した。

 それと並行して、オーバーエイジの選手については、4月ごろから大まかなイメージを頭の中に描くようになっていた。そして、トゥーロンで23歳以下の選手の見極めがある程度できたところで、その輪郭をはっきりしたものにしていった。

 トゥーロンから帰国し、反町は候補選手を何人かに絞った。この選手を入れれば、こうなるだろう。あの選手なら……。頭の中で、何度もシミュレーションを繰り返した。

 その結果、第一候補は大久保嘉人、遠藤保仁のふたりに絞られた。幸いにして、本人たちは五輪出場を望んでくれた。

 しかし、大久保は神戸との交渉が不調に終わり、遠藤は病に倒れ、両選手の北京行きは実現しなかった。

 交渉はふたりに限られていたのか。3人目を使うつもりはなかったのか。ふたりの招集がかなわなかった時点で、代案はなかったのか。今回のオーバーエイジを巡る問題については、いくつもの疑問が残るが、反町は「終わった話だから」と多くを語らない。

 「一を言えば、十を知るような選手がチームに増えてきている。それをプラスにとらえたいし、マイナスの要素は少ないと思うけどね」

 反町が言えるのは、それだけだった。五輪代表は3大会ぶりに、“純U― 23代表”で本番に臨むことになった。

イタリア戦の90分間で感じた確かな手ごたえ。

 トゥーロンで反町は、ただ後頭部を殴られ、めまいを覚えて帰ってきたわけではない。イタリアにPK戦で敗れた後の記者会見で、反町はこんなことも話している。

 「(イタリアとは)同じ歳なんですけど、経験値も含めて、実力差はあるかな、と。ただ、その実力差を埋める何かを見つけることもできたかな、と思ってる」

 イタリアはエースのジョビンコを中心に、FWの個人能力を前面に押し出し、日本ゴールに迫ってきた。特に前半、日本はそのゴリ押しに圧倒された。

 しかし後半は、日本が得意とするパスワークをベースにし、全員が連動しながら、長い距離を走ることでチャンスを作った。相手とはまったく対照的なやり方で、イタリアの勢いを押し返したのである。

 こういう部分は十分に通用するんだ。自分たちがやってきたことは間違いじゃない。

 ピッチ上の選手たちの動きを見つめながら、反町は確かな手ごたえを感じていた。この大会、優勝したイタリアが90分間で決着をつけられなかった試合は、日本戦が唯一だった。

 「イタリアみたいな相手でも、かなり窮地に追い込むことができた。いいゲームだったけど、勝てなかったのは、まだ何か足りないものがあったから。でも、自分たちのよさを出していけば、活路は開けると思ったよね」

 思えば、昨年のアジア予選中のサッカーは、「人とボールが動く」などとは、とても言える代物ではなかった。

 もちろん、反町がそれに気づいていないはずはない。だが、予選を確実に勝ち抜くためには、自分たちのサッカーを捨てることになってでも、なりふり構わずやらなければならないことがある。とりわけカタールに勝ち点で並ばれてからは、そんな考えを強くし、反町はひとまず目をつぶった。

(以下、Number709・710号へ)

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