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トミー・ラソーダ 「彼は今でも私の息子だ」 

text by

津川晋一

津川晋一Shinichi Tsugawa

PROFILE

photograph byKazuaki Nishiyama

posted2008/10/23 20:54

トミー・ラソーダ 「彼は今でも私の息子だ」<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

 メジャーにやってきたばかりの野茂の目が、キラキラと輝いていたことを今でも思い出すよ。彼はすでに日本プロ野球界で確固たる地位を築き上げていたはず。だがそれに満足することなく、さらに大きな舞台で、自分がどこまでできるか試してみたいという好奇心に満ち溢れていたんだ。

 今でこそイチローや松坂大輔のように、日本のトップ選手がメジャーに挑戦することは、当たり前になった。だが当時はまだ例がなかっただけに、日米双方から期待と不安の視線が注がれていたね。多くのメジャー関係者は“日本人が果たしてどこまでやれるんだ?”と半信半疑、いやむしろ疑いのほうが強かったかもしれない。でも、自分がなにをすべきか、野茂はちゃんと分かっていた。

 忘れられないのは、キャンドルスティック・パークでの初登板('95年5月2日)だ。彼が投げるたびに、場内には信じられないほどカメラのフラッシュが瞬いた。間違いなくあのとき、野茂がメジャーの大きく重い扉をこじあけたんだ。この年、“ノモマニア”という言葉が生まれた。新聞やテレビ、雑誌であのフレーズが躍っているのを見て、私は野茂が完全にアメリカ人のハートをつかんだと確信したよ。ドジャースが遠征先に行くと、みんな野茂が投げるのを見たがった。「この球場で野茂に先発をさせてくれ」と私にお願いをしに来る人がいたほどだ。

 野茂と初めて一緒にご飯を食べに行ったのは、シンシナティのお寿司屋さんだった。前月(7月15日)のマーリンズ戦で、私は内野手のティム・ウォーラックと賭けをしていた。ウォーラックが「野茂は投手として素晴らしいけど、決して好打者ではない」と言うから、私は「では今日もし野茂がヒットを打ったら、私と野茂に食事をご馳走しなさい。打たなかったら、私がキミをもてなそうじゃないか」と言い返したんだ。果たして、野茂はこの日メジャー初ヒットを放った。だから私たちは、翌月試合で訪れたシンシナティで、ウォーラックに寿司をおごってもらったんだ。私は好物のマグロをいっぱい食べたね。

 以来、私と野茂はよく食事に出かけるようになった。彼は食べることが大好きで、何でも美味しそうにほおばっていた。食事に誘うとき「寿司とパスタ、どっちがいい?」と尋ねると、いつもパスタを選んでいたね。日本人は寿司好きだと思っていたから意外だったな。

 あの頃から今まで、私は野茂のことを息子のように思ってきたし、彼も私のことをアメリカの父親だと感じてくれているはずだ。野茂がメジャーに来たばかりのころ、私は彼にこんな話をした。「ここには日本とは全く違う文化と言語があるから、オマエはたくさん苦労すると思う。だけどこれだけは絶対に忘れないで欲しい、私は父親のようにここにいるから。いつだって、何だってオマエのことを助けるつもりだよ」と。野茂は真剣な表情で、私の目を見つめていた。私たちは心から通じ合っていると感じ、本当に嬉しかったね。

 最も記憶に残る試合は、何と言っても翌年('96年9月17日)にクアーズフィールドで成し遂げたノーヒットノーランだ。打者に有利なあの高地の球場で、ノーヒッターをやるのは奇跡的。私は本当に誇りに思ったし、日本の誰もが誇りに思うべきだと野茂に言ったのを憶えているよ。そしてボストン時代にも達成('01年4月4日)したから、野茂は両リーグでノーヒッターを成し遂げた史上4人目の投手になった。こんなことができるのは、本当にごく限られた投手だけ。だから野茂には将来的に野球殿堂へ入って欲しいし、入るべきだとも思っている。そうだな、私が彼のことを必ず推薦するよ。

 今度、野茂に会う機会があったら、メジャーでの長年の労をねぎらってあげたい。そしてドジャース時代の思い出話に花を咲かせて、改めてこう言ってやりたいね。オマエは本当にたいしたヤツだったな、と。

野茂英雄
トミー・ラソーダ
ロサンゼルス・ドジャース

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