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野口みずき「命がけのラストスパート」
text by
黒井克行Katsuyuki Kuroi
posted2004/09/09 00:00
「大歓声を全部自分のものにできて、すごく嬉しいです。ゴールした瞬間は夢みたいでした」
シドニーから4年。アテネまでの長い闘いにようやく終止符が打たれた。第1回近代オリンピックから数えて、108年ぶりにマラソンの聖地・パナシナイコ競技場に最初に飛び込んできたのは、日本の野口みずき(グローバリー)だった。
前年のパリの世界選手権で銀メダルを獲得した翌日、野口はこう語っていた。
「アテネの本番ではシドニーの高橋尚子(スカイネットアジア航空)さんみたいに大歓声をひとり占めしたい」
それからちょうど1年後、彼女の夢は叶えられた。
この日のアテネは平均気温33℃をゆうに超える暑さに見舞われていた。夕方の6時といえども、スタート地点であるマラトンの丘は小高い山々に囲まれた“すり鉢”の底にあるために熱がこもり、体感温度は日中のそれとほぼ変わらない。野口は帽子を目深に被り、サングラスをかけてスタートの号砲を待っていた。
「レース当日は、いつもどおりの朝を迎えることができました。でも、お昼ごはんを食べてからは何だか口数が少なくなってきて、自分でも緊張しているのがわかりました。スタートラインに立った時は、もう全然気負いもなかったし、『もう行くしかない』って開き直ってました」
アテネのコースの高低差は200mあまりもある。最初の10㎞は比較的平坦だが、以降は32㎞の頂点に向かって小さなアップダウンを繰り返しながら左に右にだらだらと上っていく。28㎞から頂点までの最後の上り4㎞はもっとも急な勾配で、選手の体力を消耗させるどころか、すべてを奪い取ってしまう難所となる。そこからゴールまでの10㎞はひたすら下りが続く。
五輪史上最も過酷と言われる42・195㎞を走りぬき、なおかつ黄金のメダルを手にするために、藤田信之監督はこんな作戦を授けていた。
「まず、25㎞までは様子を見ろ。それまでにスパートする選手はいないはず。25㎞を過ぎても、集団のままだったら思い切って飛び出せ。30㎞から仕掛けたのでは遅すぎる。下りの勝負になったら他の選手に追われることになるぞ」
藤田の頭には、昨夏の世界陸上での苦い経験があった。このとき野口は30㎞過ぎで先頭集団から抜け出したが、32㎞で後方から前の動きをうかがっていたキャサリン・ヌデレバ(ケニア)に並ばれるとそのまま置き去りにされてしまった。野口に適した作戦の必要性を痛感した藤田は、スピードと持久力の強化に取り組むことはもちろん、早くからアテネの難コースの攻略法を考えていた。
レースは藤田の考えたとおりの展開となった。スタートから最初の5㎞は平坦なコースにもかかわらず、17分9秒というスローペースだった。どの選手も記録をのぞんではいなかった。先頭を走っている世界記録保持者のポーラ・ラドクリフ(英国)も例外ではなく、彼女もタフなコースを考えてスピードを上げなかった。
レース序盤、先頭集団は野口、他の2人の日本人選手、ラドクリフ、ヌデレバら外国の有力選手たちで作られていた。
「走り出してから体は軽かったし、調子はすごくよかったです。よくこの日にピークを持ってこれたな、と思うくらいで。先頭集団の顔ぶれは予想どおりでしたし、みんなの動きをよく見てました。ラドクリフが持ち前のスピードで行ってしまうかもしれないという不安はありましたが、スローペースだったので『これなら25㎞まで行ける』と、余裕をもてました。もし彼女が急に飛び出してしまったら、後半になると体力が持たなくなるので、私は付いていかなかったでしょうね」
先頭集団にいる選手たちの頭のなかには、32㎞を頂点とする上りをどうやって克服するかしかなかった。野口の目にはそう映っていた。
その時がやってくるのを全員がじっと待っている、不気味な時間が過ぎていった。
このときゴール地点のパナシナイコ競技場では、結末を待ちきれない観客が早くもヒートアップしていた。特に、有力選手がいる国の観客は、国旗を体に巻きつけたり、五輪特有の応援で盛り上がっていた。金メダル最有力候補の一人であるラドクリフの姿が競技場内に設置された大型スクリーンに大写しになる度にイギリス人から大歓声が上がれば、日の丸もあちこちで振られていた。その雰囲気は、膠着が続くレースを急(せ)かすかのようだった。
(以下、Number610号へ)