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「星野仙一は中日、名古屋メディアに守られていた」説は本当か? 江本孟紀の見解「世渡り上手ではない僕との差」「鉄拳制裁のウワサも」
text by

江本孟紀Takenori Emoto
photograph byKazuhito Yamada
posted2025/02/23 17:02

中日ドラゴンズ時代の星野仙一監督。闘将と呼ばれた男の素顔とは
その結果、ついたニックネームが「燃える男」である。闘志満々に投げる姿、降板後の悔しがる姿勢に、名古屋の人々は拍手喝さいを送っていたのだ。
ボクとの差は「世渡り上手」かそうでないか
この点が僕とは大きく異なる。僕はたった一度、「ベンチがアホ」と言っただけで、阪神をクビになってしまった。僕は阪神の生え抜きでもないし、フロントからはうるさ型の人間と見られていた。
あの「江川騒動」で事態の収拾を図った、当時の小津正次郎球団社長がその座に就いたとき、理論派で交渉上手な人物として球団上層部の間でも評判だった。そこで、
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「理屈で攻めてくる社長には、理屈ばかり言うヤツを選手会長にして対抗しよう」
ということで、なぜか僕が選手会長に選ばれてしまった。
僕は選手会長になるなり、小津社長に甲子園のロッカールームやトイレ、風呂の改装を要望し実現させた。
だが、こうした行動によって、球団上層部の間で「江本はうるさいヤツ」という評価がなされていたって、おかしな話ではない。僕は僕で、「チーム内の意見を反映させて、少しでもよくしていきたい」と純粋に考えていただけだが、悪意ある見方をしていた人たちが、僕が「ベンチがアホ」と発言したことで、「これで江本が切れる」と厄介払いできると喜んでいたのかもしれない。
「アホ」と発言しても球団に守られた星野さんと守ってもらえなかった僕——。
これは世渡り上手かそうでないかの差ともいえるだろう。
鉄拳制裁を記事に書いたときの星野さんの反応
1986年秋、星野さんが中日の監督に就任した。日本プロ野球界初の戦後生まれの監督が誕生したのである。
星野さんが掲げた野球は、「ファイティング・ベースボール」。その名の通り、激しいプレーを星野さんは選手に求めた。それまでの2年間は5位と低迷したチームは、星野さんの監督就任とともに、チームカラーだけでなく、選手たちも激変した。