プロ野球PRESSBACK NUMBER
「覚悟はありました。だからずっと電話が気になっていた」現役ドラフトでロッテ→西武移籍の平沢大河…苦しんだ“甲子園の星”を支えた言葉と「強い想い」
text by
梶原紀章(千葉ロッテ広報)Noriaki Kajiwara
photograph byChiba Lotte Marines
posted2024/12/20 11:05
現役ドラフトでロッテから西武に移籍が決まった平沢
秘めた被災地への思い
初本塁打も仙台の地で生まれた。プロ2年目の17年9月16日。大量ビハインドの展開の最終回に右翼席へと放った。のちにチームメートとなる小野郁投手から放った、平沢らしい低い弾道のアーチ。狙いすました思いきりの良い打撃が魅力の選手でもあることを再認識させるシーンだった。
被災地出身の選手として、責任感を秘めていた。東日本大震災を経験したのは13歳の時だ。自宅に津波の被害はなかったが、電気、ガスが止まった。小学校時代に野球をした思い出のグラウンドは津波に飲み込まれ、跡形もなくなっていた。当時所属していた中学野球チームの仲間たちも被害にあっていた。家が流されて避難を余儀なくされた選手、自宅が浸水して野球用具が使えなくなった選手。練習グラウンドに隣接をして仮設住宅が建った。チームは消滅寸前だった。
「野球、頑張ってね」の声に…
保護者たちは約1カ月、話し合いを続けた。「野球をやっている場合なのか」という意見も出たなかで、自宅を流された家庭の保護者が頭を下げた。「子供たちには野球を続けさせてあげて欲しい」。親として心からの思い。その一言で決まった。平沢も野球を続ける事が出来た。自分たちの気持ちを最優先してくれた大人たちの決断に、感謝の思いは絶えなかった。
ADVERTISEMENT
「チーム全員、被災した方のためにという思いが強かった。震災前まではただ野球をやっている感じだったけど、野球をしたくても出来ない人がいる。あれから、そういう事を理解して自分の環境に感謝するようになった」
練習に向かうため、仮設住宅の前を通りかかると「野球、頑張ってね」と声をかけてもらった。自分よりも大変な思いをしている人からの言葉が、励みになった。平沢が所属していた中学野球チームはその年、夏の全国大会に出場。全国大会で悲願のチーム初勝利を挙げることができた。みんなの野球への想い、被災した人たちへの気持ちが、不思議な力を引き出してくれたように感じた。それは今まで味わった事のない感覚だった。だから、仙台育英高校に進学が決まった時も、東北のために、と甲子園優勝を目標に掲げた。
「東北に優勝旗を」
「意識していない人もいたかもしれないけど、自分は当時、東北のチームが優勝をしていないのを知っていたので、東北に優勝旗をと、入学前から考えていました。特に高3夏の大会は決勝までに岩手代表の花巻東高校、秋田代表の秋田商業を破って、勝ち進んだこともあり、それら東北勢のためにも勝ちたいと強く思い、気合が入りました。東北に優勝旗を持って帰りたいという気持ちが強かった」
3年夏の甲子園では決勝で東海大相模高校に敗れ、準優勝。仙台駅に戻ると見たこともないような人だかりがあった。駅構内にも外にも仙台育英ナインを見ようと人が集まっていた。「感動をありがとう」と声をかけてもらった。高校3年間を通じて一貫して掲げていた自分の想いが、野球のプレーを通じて伝わっていた事に嬉しい気持ちが湧いてきた。だから決めた。プロ入りして、もっともっと野球を通じて、人の心を動かせるようなプレーをしたい。マリーンズに入団後も、その想いを第一にバットを振り続けていた。
平沢を支えた恩師の言葉
結果が出ず不安にさいなまれる時、いつも心に置いていたのが仙台育英時代の恩師である佐々木順一朗監督(当時)の言葉だ。
「不安がなかったら、人は頑張れないぞ。不安があるから、努力をする。成長をしようとする。今、不安を抱えているのなら大丈夫。きっとうまくいくよ」
高校最後の夏県大会前にして、「甲子園に行けなかったらどうしよう」という選手たちの不安を、力に変えてくれた指揮官のメッセージだった。この印象的な言葉は、プロ入り後も平沢を後押ししてくれた。ここまで9年間、なかなか結果が出ずに苦しんだことも多かったが、その言葉がいつも、右や左に動きそうになる心の軸を真ん中に戻してくれた。