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「男子チームで主将」「水族館リフティング」“天才サッカー少女伝説”は本当? なでしこ谷川萌々子本人に聞く「親元を離れて福島に」12歳の転機 

text by

茂野聡士

茂野聡士Satoshi Shigeno

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photograph byN.G.E(L)/JMPA(R)

posted2024/09/01 11:07

「男子チームで主将」「水族館リフティング」“天才サッカー少女伝説”は本当? なでしこ谷川萌々子本人に聞く「親元を離れて福島に」12歳の転機<Number Web> photograph by N.G.E(L)/JMPA(R)

パリ五輪での谷川萌々子。グランパスのスクール時代など、幼少期の頃に作った“伝説”とは

「一番覚えているのは、3-3-1(※7人制サッカーのフォーメーション)の真ん中のポジションをやらせてもらったことです。当時の監督は磯村健さんという方だったんですが、そこでのポジショニングを詳しく教えてもらったんです」

 磯村から教わったことは山ほどある。その中でも、特に印象に残ったことがある。

〈たくさんボールを蹴ることを忘れないようにしよう〉

〈後ろの3バックのうち、サイドの選手が持った時の立ち位置を考えよう〉

〈相手が自分に対して厳しくマークして来るようだったら、ボールを蹴るだけじゃなく、1手先のコースを作るために、あえてスペースを空けたりしてみよう〉

「少し深い話になってしまいましたが……試合中にもそういったところを意識できるようになったのかなと思います」

 サッカーへの真摯な姿勢は周囲も認めるところだった。だから「自分の中でもやってみたいという気持ちがありましたし、仲が良かったチームメートも〈やってみなよ〉と後押ししてくれました」と振り返る谷川が、キャプテンを託されるのも自然なことだった。

12歳で親元を離れても「充実した日々」

 小学6年生のタイミングで、谷川はJFAアカデミー福島への受験を決断する。セレクションでの手ごたえは、あまりなかった。しばらく待つと、合否を伝える封筒が届いた。

「自分で開けてみたんですけど……合格通知書を見た瞬間、嬉しくて泣いていましたね」

 ただそれは、名古屋出身の谷川が12歳にして親元を離れて生活することが決まった瞬間でもあった。もちろん寂しさがよぎった。それでも、福島で大好きなサッカーに没頭できる日々が待っていた。

「生活していく中で、本当にサッカーに集中できる環境だったんです。充実した日々を送れましたね。本当に色んなことを知ることができた6年間でした」

 JFAアカデミー福島には2018~2023年まで所属。ピッチ内でのトレーニングでは、いわゆる“止める・蹴る”をより一層意識し、技術向上に努めた。それとともにピッチ外では「レクチャー」と言われる座学でサッカーの原理原則を学んだ。

「中学生で入った頃に学んだことで、とても印象的だったのは〈サポート〉についてです。味方がどういった立ち位置を取っているかなど、いろいろな状況を見た上でどの様なサポートをしていくべきか。それを学べたことが自分の中では一番印象的だったんです」

ブラジル戦のPK誘発でも“判断力”が生きた

 谷川は自身最大のストロングポイントを「キック」だと語る。ただその土台に、周囲と連動する判断力やポジショニングがあることを見逃してはならない。

【次ページ】 ブラジル戦のPK誘発でも“判断力”が生きた

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